EL&Pを翻訳する(1):賢人




我が身にこびりつきし
旅の埃を
振り落とすこと能わず
我日々その埃を吸うが故
埃は我が身中深く住まう

汝と我は
昨日の答え
今日の問いには役立たぬ
遠い昔
土塊(つちくれ)が肉体となりて
時の大河に蝕まれた末
今日我らが持てる形となれり

我らの肉と血は
畢竟
土から土へ
灰から灰へ
埃から埃へと還るものなり

私の血と肉は 今まさに土へと還ろうとしている どうかここへ来て 分かち合ってくれ この 肉でもなく 血でもない いかなる埃にも塗(まみ)れることのなかった 私の息吹を この私の本質(=魂 [タマシイ])を そして 合体させよう 肉でもなく 血でもない 土にも 灰にも 埃にも 決して塗(まみ)れることのない 我らの流れを 我らの時を

この輝ける 終わりのない瞬間に 土と灰と埃に塗(まみ)れた我らの理性とやらは 悦ばしき詩(うた)の中へと 跡形もなく 消え失せるだろう
I carry the dust of a journey that cannot be shaken away It lives deep within me For I breathe it every day You and I are yesterday's answers The earth of the past come to flesh Eroded by Time's rivers To the shapes we now possess Come share of my breath and my substance And mingle our streams and our times In bright infinite moments Our reasons are lost in our rhymes

訳詞解説:"yesterday's answers" か、それとも "yesterday's ashes"か、そして"my substance"とは、"our times"とは何か

10年前くらいに一度調べたことがあったのですが、「The Sage」の2番(?)の出だし部分は、歌詞サイトによって「You and I are yesterday's answers」であったり「You and I are yesterday's ashes」であったりしてまちまちです。オリジナル版ではレイクさんもささやくように歌っているので、よぉーく聴いてもどっちだか判断しづらいです。

しかし、この歌詞のキーワードとして「dust(埃、塵)」と「earth(土)」、さらに「flesh(肉体)」が出てくること、およびキリスト教(中でもイングランド国教会派だけ?)の葬儀での埋葬の際に唱えられる言葉として「土は土に、灰は灰に、塵は塵に(earth to earth, ashes to ashes, dust to dust)」という決まり文句があることを考え合わせると、ここは「yesterday's ashes」とした方が座りが良いため、私はこの部分は長年「ashes」だと思い込んでいました。すなわち「You and I are yesterday's ashes」で「汝と我は昨日(できたばかり?)の灰にすぎぬ」だと。

ところが最近になって、岩谷さんがブログに書いている、EL&Pの「The Sage」から始まり、グリーグの「ペールギュント組曲」、そしてイプセンの「ペールギュント」にまで発展した興味深い記事にあったbadさんという方のコメントを読んで「answersかそれともashesか」が再度気になってしまったので、今度はこれまでほとんど聴いたことの無かった「展覧会の絵」の2001年リマスター版CD(レーベルはSanctuary Records)を引っ張り出してきて、そのCDにボーナストラックとして収録されている「1992年11月EL&P再結成時(って再結成してたんだ...)のライブで演奏された"Pictures at..."のダイジェスト版」の「The Sage」の当該部分を耳の穴かっぽじって聴いたところ、同バージョンでは割にはっきりと「yesterday's answers」と歌っているように聴こえることを発見しました。

すると今度は、「汝と我は昨日の答えだ」って一体どうゆう意味なのよ?ということが気になってきました。もしかして『我と汝』(マルティン・ブーバー著、これ、岩波文庫版を最近読んでるんだけど、なかなか進まないわ...)という書物への言及なのか?とか、いろいろと悩んだ挙句、「"yesterday's answers lyrics"」でググってみたところ、意外や意外、Megadethというスラッシュメタル(って何じゃろ?ヘビメタとどう違うの?)バンドの「Losing My Senses」という曲の中に次のような歌詞が含まれているのを見つけました。

Yesterday's answers has nothing to do With today's questions
「昨日の答えじゃ今日の問いには役立ちゃしねぇぜ」てなとこでしょうか。なるほど、「Yesterday's answers」とは「昔は一応機能していたものの、いまや陳腐化・無用の長物化してしまったもの」を指すようだ。そういやストーンズに「Yesterday's papars」って曲あったな、「Who wants yesterdays papers. Who wants yesterdays girl(昨日の新聞欲しがるやついねーって!まして昨日のオンナをや)」って、あんま関係ないか。

でもまぁ、これで一応「Yesterday's answers」についてはケリがついた。さて、次なる難問は「Come share of my breath and my substance」の「my substance」だ。「substance」を辞書で引くと、「物質(matter);物体,個体;構成要素,(土台の)材料,(織物などの)地物」という意味と、「本質,実体,内容;哲学実体;本質;本体」という意味が並列されていることに驚かされる(これらの訳語はyahooの『eプログレッシブ英和中辞典』より引用)。

「substance」の語源は、ラテン語の substantia (sub-下に+stre立つ+-ens現在分詞語尾+-ia-Y3=底にあるもの)だというが、なぜ「底にあるもの」が「物質/物体」と「本質/実体」という2つの異なる意味系列の言葉に分かれるのか。「物質」および「本質」という言葉は、通常、同義語としてではなく、異なるレベルの概念として使われる。たとえば、「物質の本質はXXXだ」と言うとき、この言表の話者は、物質には「本質」と「非本質(仮象)」があることを(曖昧にではあったとしても)前提としている。また、たとえば、「君は物質の本質を捉え損ねている、君が見ているのは物質の非本質的な面(仮象)に過ぎない」などという文言では、「物質」と「本質/非本質(仮象)」がはっきりと異なるレベルの概念として使われている。

賢明な読者であれば、「Come share of my substance」の「substance」は「物質」ではなく「本質」の方を意味すると直感的に分かるだろう。そして、「いざ来て、我が息吹と我が本質を共に分かち合え」とかなんとかサラッと訳してハイおしまいで、「substance」とは何かについては一切考察しない(ありがちだよね)かもしれない。しかし、愚直な書き手としては、ここでさらに一歩踏み込んで、「substanceとは何か」についてとことん思考したいと思う。なぜ、「Come share of my substance」の「substance」が「物質」でなく「本質」と訳す方が適切であると分かるのか、その理由を他人に分かりやすく説明せよ、と言われたら結構大変だ。その場合、どうしても、哲学において「Substance dualism(実体二元論)」がいかにして成立するに至ったかの思想史的背景を自分なりに検証する必要が出てくるからだ。うん、確かにそりゃ大変だ。また今度にしよう。

さらに、「mingle our streams and our times」の「our times」がこれまた超難問だ。賢明な読者であれば、「我らの流れと我らの時を一つに混ぜ合わせよう」(もう文語調じゃなくなってるけど)などとさらっと訳してハイおしまいで、「時」については何も考えない(これもありがちだよね)かもしれないが、愚直な書き手としては、ここでしばし立ち止まって「時間とは何か?」についてひとつ真剣に考えてみたいと思う。うん、これもまた非常に大変な試みだ。だがこれに関しては、以下にちょっとトライしてみよう。

実は、上記の「The Sage」の訳詞は、Roxy Musicの「Flesh and Blood」という曲の歌詞を強烈に意識して訳したものなのでした。「Flesh and Blood」はユーモラスな短い詩だが、そこには「肉と血」対「心と時間」の相克に関するスルドイ洞察があふれている。

My friend's flesh and blood She lies overtime You'd nail her if you could But she says Love me for my mind In my time I'm not that kind My friend's flesh and blood Night size - perfect ten So rude - she's no good But as she says It pays to win Play to win She plays to win My friend's flesh and blood Street wise for her time You'd nail her if you could But she says Love me for my mind In my time
ここでの「(私の血肉がゆえにではなく)私の心ゆえに、私の時間の中で、私を愛せよ」とは、一体どういうことなのか?ここでの「私の時間」とは一体何を意味するのか?

「私の時間とは何か?」という問いに答えるためには、「時間と自己」に関する考察が必要となる。この考察においては、考察者自身が「数(かず)」というものに対してどのような態度を取るかが極めて重要となる。すなわち、「数とは何か?」という問題について、誰かの考えをコピペするのではなく、自分自身でとことん考えた上で、借り物ではないその人自身の自分の言葉で、真剣かつ誠実に答えることがどうしても必要となる。

なぜならば、「私の時間の中で、私を愛せよ」と言う場合の「時間」とは、明らかに数(時計とか心臓の鼓動回数とか太陽が登った回数とか)によって計測可能な時間ではないからだ。この場合の時間とは、「私」というこの徹頭徹尾具体的な「自己」が体験する感覚のことであり、それは一切の尺度を超えているために計測が原理的に不可能なものだからだ。「私の時間の中で、私を愛せよ」という言葉を真摯に受け止めて理解するためには、この世には計測不可能な時間が厳然として存在するという真理を、曖昧なブンガク的なカタチでホンワカと受け止めて終わるのではなく、亀のようにのろい歩みであったとしても、より論理的に、より誰もが納得できる形で、広く社会的に認識させていく必要があるだろう。なぜなら、このような計測不可能な「私の時間」こそが、具体的な「私」のユニークさの源泉であり、「その人がその人当人である根拠」となるものだからだ。

たとえば、今から30年以上前のロック音楽の歌詞にあった「I, You, We are time」は、まさにそのことを言おうとしていたのではなかったか。また、今から40年以上前のロック音楽の歌詞にあった「one of these days, I'm going to cut you into little pieces」は、「私は、この今というかけがえのない時(とき)をあまたある日のうちの一日として認識することにより、あなた(=時間)を自然数(=正の整数)によって細かく切り刻む」ことへの違和感なり罪悪感なりを表明していたのではなかったか。

ところで、「私の言葉」(my words)という言い方も、上記の「私の時間」と同様に、それが仮に武骨でぎこちないものであったとしても、計測不可能な、その人独特の個性的な、その人ならではの世界が厳然として存在していることを聞くものに想起させる場合がある。たとえば以下の歌詞を見よ。

Don't you walk thru my words ゴルァおめぇ、俺のコトバをスルーすんじゃねぇぞ You got to show some respect ちったあ敬意ってもんを見せんかいゴルァ Don't you walk thru my words だから俺のコトバをスルーすんじゃねってんだよ 'Cause you ain't heard me out yet おめぇは俺のこと、まだなーんも聞いちゃいねえんだからよ

だが、数についてはどうか?たとえば、「私の数」というものはありえるだろうか?「my number」といえば、それは通常自分が保持しているID番号とか電話番号のことであり、上述した「私の時間」や「私の言葉」が持つような計測不可能な自己のユニーク性には結びつきそうにない。それはなぜなのか。

たとえば、心臓の1回の鼓動にかかる時間はネズミだと約0.2秒でゾウだと約3秒であり、それぞれの動物の平均寿命の長さをこれで割って、各動物の心臓が一生の間で鼓動する回数を計算するとほぼ同じ数(15億回とか)になるから、寿命の短いネズミと寿命の長いゾウとでは各動物個体が感じるであろう「時間の経過スピード」が大きく異なる、などと生物学者が平気で言う場合、先に述べた「私の時間」が示唆するような計測不可能な時間の存在についてはまったく問題にされていない。それはなぜかというと、心臓の鼓動の「回数」という「数」は、人間も動物も植物も無生物をも含めたあらゆる「自己」の存在を離れて実在するものであると信じられているからだ。

このように、数とはあらゆる具体的な自己の感覚を離れて存在する(=自己が具体的にどう感じるかによっては左右されない)ものであり、人間の存在や「数え上げる」という行為からも完全に独立して実在するものの代表格として君臨しているように思える。ていうか、そのように考えているらしい数学者や数学の先生やド素人の一般ピープーが今も多数存在する。

しかし、「数とは何か、何であるべきか」または「数の本質と意義」(これはデデキントという数学者の著書のタイトルなのだが)について究極的に解明しようとすると、無限集合が存在するという定理の証明のところで、私が思考するいかなる思考対象の要素にも原理的になり得ない「私本来の"自我"」(注:これは具体的でユニークな「自己」を指すのではなく、どこの誰であってもいい「抽象的な思考主体」を指していることに注意されたい)をついつい導入せざるを得なくなる、のではなかったか?

また、20世紀半ば過ぎ(戦後)の数学における構造主義の流行(数学者の遠山啓が1970年代初頭に主導した日本の小学校教科書への「集合論」の導入はブルバキ的な構造主義とどう関係するのか?)とは、「数える主体」(注:これも具体性・ユニーク性の源泉である「自己」を指すのではなく、思考対象をまるごとカッコ入れするような「抽象的な思考主体」を指していることに注意されたい)のような素朴な形而上学的(==イデアリズム的ないしプラトニズム的)概念を何が何でも数から引き離しておきたいという、ある意味セコい欲望の産物ではなかったのか?

さらに、量子力学における「観測の問題」(measurement problem=計測/測定の問題)の解決策として、フォン・ノイマンは観測者の「抽象的自我」という途方もない形而上学的(==イデアリズム的ないしプラトニズム的)概念を提示したのだが、これはデデキントの「私本来の"自我"」の再来ではないのか?

そして結局、「計測不可能なユニーク性の源泉である具体的な自己」と「抽象的自我」との間の鬩(せめ)ぎ合いこそが、人が「数」や「貨幣」に対して拭いようのない違和感(ないし「怒り」)を抱く根本的な原因なのではないか?

このようなテーマについて深く掘り下げていくためは、数というものに対する違和感を糊塗することなく、計測不可能な具体的な自己を尊重する誠実で真剣な姿勢を維持した上での哲学的な考察が必要となるだろう。これまで「貨幣とは何か」について考えた哲学者や思想家は数多くいたかもしれないが、そのほとんどが貨幣の本質である「自然数」に関しては考察を断念しているようだ。これらの人々は、自然数が出てきた時点で、「数(という存在)は誰にも否定できないから...」ってんで尻尾を巻いて退散しているように見える。「数とは何か」そして「数と自己」についてとことん考えた哲学者/思想家は、ヘーゲル以外には過去にも現在にもほとんどいないのではないか?だが、

「数とは何か?」という問いに対する明確な答えを持たない自称思想家は思想家の名に値しない

と私は思う。

数学の歴史をちらっとでも見れば分かるが、驚くべきことに、ついこないだまで、すくなくともデデキントとかカントールとかペアノとかフレーゲとかが仕事を始める前の19世紀後半くらいまでは、数学者ですらも、数とは何か?について真剣に考えなくても良かった幸福(?)な時代だったようだ。すなわち、「数とは何か」、「無限とは何か」、「自己とは何か」をあえて明示的に言語化せずとも、阿吽の呼吸で判り合えていた(と誰もが思っていた)呑気でエエカゲンな時代。

しかし、20世紀になると、自然数論が抱えている根本的なパラドックスが原因となり、数(学)はその信頼性の礎であった(はずの)確実性を根底から失うという事態が起こってしまう。そして今、数と自己の関係はどうなっているのか? 以下に引用するのは、現在も存命中の某数学者(日本人男性)による驚くべき発言である。

地球が爆発してもなくならない真理って、数学以外ほとんどないですもんね。 ほとんどのものは地球上だけのことと言う意味で、ローカルな話です(笑)。 (中略)数学は銀河系の果ての果てまで同じ。 三角形の内角の和は、どこへ行ったって180度。

どうやら、この数学者にとって、数とは、己れ自身の自己とはまったく関係なく、あらゆる自己の外に無条件に存在しているもののようだ。今でも、ほとんどの数学者や数学関係者は「数とは何か」や「自己とは何か」について明示的に問うことがないらしい。いわんや物理学者をや。

しかし、それでいいのだろうか?我々は「数」も「自己」もそれが何であるかについては一生知りえることはなく、それらをただ未定義のままに使うだけなのか?本当にそれでいいのか?いや、近い将来、誰もが「数と自己」についての明確な定義を、自分自身のコトバで、とことん詳らかにすることができなくてはならない時代が来る、かもしれない。

てことで続きはまた今度。




PS:

その1:歌詞サイトによっては、最後の「Our reasons are lost in our rhymes」が「Our reasons are lost in our eyes」になってることもあるけど、この部分はオリジナル版(私の持っているLPレコード、型番:SD 19122、てことは米再発盤)でもはっきり「rhymes」と聴こえます。この「rhymes」は、「And mingle our streams and our times」の末尾の「times」とでrhyme(韻)になってるんですな。あ、悪い悪い、今時の若い人は「韻」って言わずに「ライム」って言うんだっけ?

その2:「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」という決まり文句に関してはここが参考になった。そういや、Bowieには「Ashes to Ashes」てゆう曲がありましたな。今度訳してみよう。

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