ビートルズを翻訳する(1):「我が人生の中で」



  我が人生を通じて忘れられない土地や場所ってのが幾つかあって
  中にはすっかり変わってしまった所もあれば
  良かれ悪しかれ(って「良かれ」はありえないけど)末永く変わらない所もある
  消えて無くなった所もあれば
  まだしぶとく残っている所もある

  それらの土地や場所の名前にはすべて
  かつての恋人(複数)や友人達と過ごした時間が結び付けられている
  今でも想起可能なそれらの人達の中には
  死んじゃった奴もいれば
  まだしぶとく生きてる奴もいる
  これまでの我が人生の中で
  僕はそれらの人達すべてを愛してきたつもりだ


  しかーし!
  これらの友人や恋人(複数)の中で
  君に匹敵するような人間は
  誰一人として存在しない
  そして
  「新しい概念としての愛」
  について僕が思考する時点で
  (具体的な土地や場所およびそこでの経験と結び付いた人達に関する)
  これらの記憶は
  その意味を失ってしまうのだ

  とは言え
  去って行った人達や過去の物事に対する
  優しい気持ちを僕が失うことは今後もない(と思う)し
  しばしば立ち止まっては
  それらの人々や物事を回想することもあるだろう(と思う)

  けれども
  我が人生の中で
  僕は
  どっちかって言うと
  (トータルな比率として、彼らよりも)
  君の方を多めに愛すことになるだろう

  我が人生の中で
  僕は
  (どっちかって言うと)
  君の方を多めに愛すことになるだろう


私は数年前から『一冊の本』というタイトルの朝日新聞社の PR 誌(月刊)を 定期購読しています。購読料が格安な割には、表紙のデザインがとても素晴らし い雑誌です[1]。その『一冊の本』の 2005 年 11 月号から、『音楽のア マチュア』(by 四方田犬彦)というタイトルのエッセイが連載されています。 なにやら意味不明なタイトルですが、なぜこういうタイトルになったかという 理由が書かれている部分を、その連載の第一回目から引用してみます。

わたしは音楽を媒介として他の人たちと競いあったり、政治的に振る舞う必要 を感じていない。自分が習い憶えた稚拙な楽器操作を通して、何か競技で勝ち 抜こうという意欲もなければ、音楽について書くことで世間的な栄光を目指す という野心もない。私は音楽を他の目的に利用することもなければ、何か特定 の知識のジャンルのために奉仕させる欲求も感じていない。わたしはどこまで も名前を欠いた愛好家として、旅行と滞在のさなかでさまざまな音楽に廻り会 い、それを記憶の快楽のなかで熟成させるだけの存在にすぎないのだ。これは 映画史家としてのわたしが映画について書く場合には許されない審級(スタン ス)である。ただ音楽について書くときにのみ許されるだろうということを、 わたしは了解している。[2]
なんか、とっても感動的なエクスキューズです。つまりですね、この奇妙な連 載タイトルの意味は、「これからオラは音楽についての知ったかぶりな感想文 をいつもの鼻持ちならねえ調子で書き散らすつもりだけっども、オラは映画に ついてのプロであってよぉ、音楽に関してはアマチュアだからよぉ、ウソ書い てもどうか勘弁してけろ」[3]というようなことなのですね。こんな風 に言い訳されたら、しょうがねぇな勘弁してやっか、と誰しも思ってしまうじゃ ないですか(ただ、内容をより忠実に表すためには、いっそ『音楽の半可通』 というタイトルにすれば良かったのに、とは思う)。というわけで、『音楽の アマチュア』という連載はずっと飛ばし読みしていたのですが、2006 年 5 月 号に掲載されていた同エッセイの七回目はお題が「ビートルズ」だったので、 「ん、もぅ、変なこと書いちょったら許さんけんね」的な気分でついつい読ん でしまったわけです。そしたらですね、そこには次のようなことが書かれちょっ たわけです。
...というのもビートルズにとってノスタルジアとは、後になって外部から 付加されるものではなく、デビュー当時から彼らの歌詞の本質を構成していた ものだからだ。そう、彼らは機会あるたびに、喪失と悔恨について歌っていた ではないか。「昔は返るべき道があった」「いつまでも憶 えている場所というものがある」「若かったとき、今よりもっと若かっ たとき、ぼくは誰の助けも絶対に要らなかったのに」。
ここで、「昔は返るべき道があった」は "Golden slumbers" の、「いつまで も憶えている場所というものがある」は "In my life"の、「若かったとき、 今よりもっと若かったとき〜」は "Help!"の、それぞれの歌詞の冒頭部分を翻 訳したものと思われます。私は、"Golden slumbers" の子守歌然とした歌詞が 本質的にノスタルジックであるという感想に対してはその通りだと思いますし、 "Help!" のあの幼稚な歌詞がどーたらについては興味がないので別にどうでも いいです[4]

しかしですね、"In my life"の歌詞の「出だし」部分だけを引用しておいて、同曲が 本質的に "Golden slumbers" と同様の ノスタルジー賛歌であると仄めかすかのような臆見に対しては、私は大いに異 論がある、ていうか「馬鹿も休み休み言え!もしかして "In my life" の歌詞を全部通して読んだことが一度もないんじゃないの?ハァハァ 」という感想を持ちます。

また、デビュー当時からノスタルジア(「郷愁」)を本質的な構成要素とする 歌詞を得意とし、機会があるたびに「喪失と悔恨について」歌ってきたグルー プ、と言えば、それは「ビートルズ」ではなく「サザンオールスターズ」の間 違いではないのでしょうか。そう、サザンはデビュー曲からずっと事あるごと に歌っていたではないか、具体的な土地や場所の名前(を含む様々な「固有名」)と結び付いた友人や恋人 達の記憶、およびそれが喚起する切ない感情について。「砂混じりの茅ヶ崎」、 「江ノ島が見えてきた、俺の家も近い、行きずりの女なんて、夢を見る様に忘 れてしまう」、「ラチエン通りのシスター」、「烏帽子岩が遠くに見える」、 「二人して駆け込むパシフィックホテル」、「戻れるなら in my life again、 思い出すのは "Better Days"」...。

そして、これが重要なことなのですが、なんと当の "In my life" というビー トルズの曲の歌詞においては、驚くべきことに、一般に「郷愁」と呼ばれる感 情を引き起こすものとして「具体的な土地や場所の名前と結び付いた個人的な 記憶」があること、そしてそのような記憶の持つ意味ないし価値が人生のある 時点で不意に失われてしまうことが、あまりにもドライ&クール(かつユーモ ラス)に歌われてしまっているからなのです。このことを証明するために、以 下にその歌詞をできる限り丁寧に(かつ極度なまでに論理的に)翻訳&解説し てみましょう。 一番(1st verse)の歌詞の原文は以下の通りです。

There are places I'll remember
All my life
Though some have changed
Some forever, not for better
Some have gone and some remain

All these places had their moments
With lovers and friends I still can recall
Some are dead and some are living
In my life I've loved them all
ここでの英文の構造としては、"some ... some ..." という言い回し(「〜も あれば〜もある」)が特徴的です。 翻訳する上では、"some have changed" と "some (will not change) forever"、"Some have gone" と "some remain" 、"Some are dead" と "some are living" がそれぞれ対になっていることに注意しましょう。ちょっと日本 語に訳しにくいのが、"Some forever, not for better" の部分です。ここで は "forever"(永遠に、末永く)と同じことを意味するイディオム "for better or worse"(良かれ悪しかれ、良いときも悪いときも末永く) を使っ た言葉遊びが行われているのです。すなわち、この短い一行をパラフレーズするならば、 たとえば次のようになるでしょう。
変わってしまった場所もあれば、"for ever" (に変わらないよう)な場所もあるよ。 だけど、"for ever" とは言っても、この場合には "for better or worse" の "for better" の部分は当てはまらないよね、なぜなら、それらの場所は今後 「より悪しき - worse」事態に見舞われる運命にはあるけれども、「より良き - better」事態には見舞われないっしょ;-)
上記を踏まえて、一番全体を訳すと以下のようになります。
我が人生を通じて忘れられない土地や場所ってのが幾つかあって
中にはすっかり変わってしまった所もあれば
良かれ悪しかれ(って「良かれ」はありえないけど)末永く変わらない所もある
消えて無くなった所もあれば
まだしぶとく残っている所もある

それらの土地や場所の名前にはすべて
かつての恋人(複数)や友人達と過ごした時間が結び付けられている
今でも想起可能なそれらの人達の中には
死んじゃった奴もいれば
まだしぶとく生きてる奴もいる
これまでの我が人生の中で
僕はそれらの人達すべてを愛してきたつもりだ
結局ですね、 この曲の本質を典型的なノスタルジア賛歌であると誤解してしまうのは、 その歌詞を上記の一番の部分までしか読んでないから だと思われます。この曲にとって一番の歌詞は「前振り」であって、 重要なのは「オチ」を含む二番(2nd verse)の歌詞なのです。まず二番の前半部分の原文を示します。
But of all these friends and lovers
There's no one compares with you
And these mem'ries lose their meaning
When I think of love as something new
動詞 "compare" には自動詞と他動詞がありまして、"compare A with B"(A と B を比較する)という場合の compare は他動詞です。一方、"There's no one compares with you" における "compare" は自動詞であり、この 場合 "A compares with B" は「A は B に匹敵する」ないし「(比べてみた結果)A は B と能力や価値が同等である」という 意味になります。したがって、この部分で、一人称の「僕」は "you" と "all these friends and lovers" を compare(他動詞)した結果、you に compare(自動詞) するような人物が後者の中には誰も存在していないことが判明し た、と告白しているのですね。 「比較」はこの曲のキーワードです。ここで、 「僕」が「君」と「それ以外の全てのフレンズ・アンド・ラバーズ」を冷静に 比較した上で両者の価値を判断していること、これにより末尾のパンチライン が効いてくるからです。この部分は、私なら次のように訳します。
しかーし!
これらの友人や恋人(複数)の中で
君に匹敵するような人間は
誰一人として存在しない
そして
「新しい概念としての愛」
について僕が思考する時点で
(具体的な土地や場所およびそこでの経験と結び付いた人達に関する)
これらの記憶は
その意味を失ってしまうのだ
"love as somethig new" も訳しにくい言葉ですが、ここでは「新しい概念と しての愛」と訳しました。あるいは「革新的な何物かとしての Love」でも良かったかも。いずれにせよ「何だかとっても新しいものとしての愛」を思考するに至った「僕」 にとって、具体的な土地や場所と結び付いた昔の恋人や友人達に関する懐かし い思い出は今や、そのありうべき意味(ないし価値)を決定的に失ってしまっ ていることが、ここでハッキリと歌われています。もっと強く言うなら、ここ で歌われているのは、「新しい概念としての愛」を知ってしまった「僕」に降 りかかってきた「素朴な概念としての友愛や恋愛に関する突然の価値下落」で あるとも言えそうです。

さて、次が二番の後半部です。まず原文です。

Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I'll love you more

In my life I'll love you more
この部分には、本曲のパンチラインである "In my life, I'll love you more" が含まれています。この「オチ」をどう訳出す るかが翻訳者としての腕の見せ所です。参考までに、2003 年に再発されたア ナログ日本版に添付されていた訳詞(対訳: 奥田裕士)の該当する部分を以下 に引用してみます。
去っていった人たちや物への
愛情が消えることはない
きっと何度もふと思い出すことだろう
でもこの人生でぼくは
それ以上にきみを愛する
えっ、「それ以上に」ですか...。こ れじゃあ全然ウィットも何も効いていないじゃないですか。この最後の一文をどう訳出するかによって 翻訳者としての力量が問われるのですよ、ハァハァ、って、いかんいかん、落 ち着け>ワシ。んーとですね、私ならここは以下のように訳します。
とは言え
去って行った人達や過去の物事に対する
優しい気持ちを僕が失うことは今後もない(と思う)し
しばしば立ち止まっては
それらの人々や物事を回想することもあるだろう(と思う)
けれども
我が人生の中で
僕は
どっちかって言うと
(トータルな比率として、彼らよりも)
君の方を多めに愛すことになるだろう
我が人生の中で
僕は
(どっちかって言うと)
君の方を多めに愛すことになるだろう
"I'll love you more" の "more" は「比較級」でありますから、この文を訳 す場合、「僕」は "you" を誰と比較して「もっと愛する」のであるかを明確 にする必要があります。比べられているのは、間違いなく "you" と "all these friends and lovers"です。「僕」がこれまでに出会ったフレンズ・ア ンド・ラバーズとは、いずれも具体的な土地や場所の名前と結び付けられるこ とで(かろうじて)「僕」の記憶に残っている存在です。たとえば、サザンオー ルスターズの歌詞で言うならば、「茅ヶ崎」、「ラチエン通り」、「烏帽子 岩」、「パシフィック・ホテル」等々の実在する(または過去に実在していた) 地名や場所名に結び付けられる記憶の中の友人や恋人達がこれに相当します。 日本経済新聞の連載『私の履歴書』風に言うならば、ワシが旧制高校を出て帝 大に入学した年の夏休みに葉山の別荘で偶然出会った社長令嬢(後にワシの嫁 となる人物)、または疎開先である山梨県東八代郡石和町の分校でいじめられっ 子だったワシに優しくしてくれた担任のヨシコ先生(当時 21歳、未婚)等がこ れに当たります。これに対して、"you" とは、これらのフレンズ・アン ド・ラバーズとは「全然レベルが違う」存在なのです。この "you" を、誰もが知っ ている実在する固有名と結び付ける方も大勢いらっしゃる[5]と思いますが、その ような陳腐な私小説的解釈を行うことに私は断固反対します。

では、この "you" とは誰のことなのか?

ここでの "you" を、実在する土地や場所からは完全に切り離された無国籍者 (祖国喪失者)、または、結び付けられるべき具体的な地名(国名とか)を一 切持っていない抽象的な存在、と解釈してみたらどうでしょう。あるいは更に 一歩進んで、ここでの "you" とは、「世界に向かって文章を発表し、世界に 向かって語りかける」自由と応答-可能性[6]とを有する、カント的な意味 での来るべき「コスモポリタン」(世界市民)としての「あなた」である、と 解釈したらどうでしょう。そして、更に言えば、この "you" が指しているのは、本曲の来る べき「聴き手」であり、この詩(歌詞)の来るべき「読み手」なのであると。こう 解釈すると、モロ・シクスティーズ的なラブアンドピー ス礼賛としても読まれてしまうこの歌詞が、俄然今日的な意味を帯びることにな ります。なぜなら、この解釈によれば、「僕」は、自分の人生の中では、「具 体的な場所に結び付いた友人や恋人」よりも、現時点ではどこにも場所を持っ ていない=非場所(utopia)的な=コスモポリタンである「あなた」の方を多 く愛するだろう、と宣言していることになるからです。そうです、この曲は、 そのメロディーや演奏のほんわか感とは裏腹に、歌詞的にはか なりラディカルで「ヤバい」曲でもあるのです。

最後に、この曲の中で最も「ラディカル」で(「危険思想っぽいから」と 言うより、論理的な脆弱性や不整合性を内包しているが故に)「ヤバい」と思 われる部分をもう一度引用しておきましょう。

And these mem'ries lose their meaning
When I think of love as something new.

話者である「僕」は、「Something new としての Love」に関して思考が及ん だ時点で、「具体的な土地や場所(の名前)と結び付いた昔の恋人や友人達に 関する個別的な記憶」はその意味を失う、と語っています。つまり、よりスル ドク深読みするならば、この「Something new としての Love」とは、「生い 立ちや幼年期または青春期の体験に結び付けられる友愛や恋愛」を超えるもの、ひいては「何らかの固 有名に結び付けられるような愛」を超える ものとして提示されているように思えます。しかし、この「Something new と しての Love」というものの実体は何か、それはどこから来るのか、例えばそ れはキリスト教的な「普遍の愛」とどう違うのか等々については、この曲では 一切語られておりません。これを究明するには、本曲が収録されているアルバ ム "Rubber soul" の "The Word"(「その言葉」) という曲の歌詞を分析する必要があるようです。 続く!


<注>
  1. この雑誌の表紙は、毎回、水谷嘉孝によるハイパーリアリズム画を中心に据えた超クールなシンプルデザイン(アートデレクションは原研哉 + 及川仁)であり、私はこれが楽しみで同誌を購読し続けている、と言っても過言ではありません。

  2. ここに引用した部分が、『快適生活研究』(金井美恵子著、朝日新聞社刊、2006 年)という小説の 237 ページにそっくりそのまま(誰が書いた文章であるかも、どこの何から引用したのかも、一切示すことなく)引用されているのを発見したときには驚きました。あまりぱっとした業績もない 50 代の文学系大学教授であると思われる人物が、この引用文の「音楽」という箇所を、自分の趣味である「家具作り」(その腕前は自称セミプロ級)と読み替えることで、当該引用文を書いた同業者に対して心底共感を覚える、というくだりで出てくるのですが、これほど底意地の悪い引用の仕方ってのも前代未聞じゃないかと思いました。でも金井美恵子の尻馬に乗るなんて行為は「人間としてやっちゃいけないこと」の一つだよね、とハゲシク反省。(2008/10/15 付記)

  3. かねがね『一冊の本』の校正は「ザル」だと思っていましたが、 今回読み直したところ、同誌の 2006 年 5 月号に掲載されていた『音楽のアマチュア』の「ビートルズ」 の回では、以下の誤記を発見しました。
    • "Get back" の歌詞が "Get back to where you once belonged to" と間違って引用されている。 正しくは "... to where you once belonged" で末尾の "to" は不要。
    • "While My Guitar gently Sleeps" は "Weeps" の誤り。
    ついでに言えば、同連載の「ルチアーノ・ベリオ」の回(2006 年 9 月号)には、「ピンク・フロイドの Atomic Heart Mother は...」とあるが、これは "Atom Heart Mother" の誤記。

  4. 「喪失と悔恨について」歌ったビートルズ・ソングの典型例を挙げるのであれば、折角そのものず ばり "Yesterday" という曲があるのですから、「つい昨日まで、俺にとって恋愛とはプレイするのが超簡単なゲームだった、ところが今の俺ときたら、いっそどっかに引きこもってしまいたい気分だぜ、そうさ、俺は昨日(までが正しいってこと)を信じてる」を入れた方が良かったのではと思う。

  5. この "you" を実在の人物に結び付けて解釈するとしたら、 誰もが思いつくものとして「"you"=ヨーコ・オノ」説ていうのが多分あ るだろうなー、でもそれじゃあベタでつまんないよなー、と思ってこの文章を 書いたのですが、ある方からメールを頂き、「"you"=スチュアート・サトクリフ」説というのが(しかも通説 として)存在することを教えて貰いました。その方によれば、"Nowhere Man" の "he" もサトクリフがモデルであるというのが「定説」なのだそうです。全然知らんかったわ。(2008/10/15 付記)

  6. ここでの「応答-可能性」(response-possibility)とは、応答を返すか もしれないし返さないかもしれない「自由」のことであり、言い換えれば「応 答の偶然性」(response-fortuity)に関する謙虚な認識のことである。「返 す/返さない」自由と言うと、何らかのインプットを受容した主体が、当のイ ンプットに対応するアウトプットを返すか返さないかを決定する権利を持って いるようにも聞こえる。「自由」について深く考えていくためには、応答を 「与える」側の(卑屈または傲慢になりがちな)主体に注目するよりも、応答 を「待つ」側の主体が持ちえる可能性のある「応答は返ってこない場合」もあ れば「思わぬところから思いがけない応答が返ってくる場合」もある、という 謙虚な認識、そして「返ってこなくても構わない、許す」という柔和さ (meekness)を考察する方がより重要かもしれない。

    「応答可能性」は、人間が人間であると承認されるためには誰かからの呼びか けに対して一定時間内に必ず何らかの「言語的な」応答を返さなければならな いという「責任」(responsibility)に結び付けられて論じられることが多い。 この論に従えば、「応答を返すかもしれないし返さないかもしれない」という 態度を肯定するなんて「無責任」にも程がある!ということになろう。しかし、 「応答可能性」に「自由」ではなく「責任」のみを結び付けようとする論理は、 反復強迫ならぬ「I/O (アイ・オー)強迫」が人間のココロに本質的にビルト インされていることを前提としているのだ。

    「I/O強迫」(筆者の造語)とは、自らが受けたインプットに対しては必ず何 らかのアウトプットを一定時間内に返さなければならない、という思い込みが 病的に高じた症状のことだ。これは、自分が相手に対してインプットを与えた 場合、その相手は必ず何らかのアウトプットを自分に返すはずだし、絶対に返 さなければならない、何も返さないなんてことはありえない、てゆうか「あっ てはならない」、という思い込みでもある。この思い込みが極端に高じると、 人は自分のインプットに対して相手が思うようにアウトプットを返さない場合、 何とかして相手に「有無を言わせず」アウトプットを返させるような手段を講 じようとする。

    卑近な例では、喧嘩に負けて帰ってきた子供に親が言う「やられたらやり返せ」 という好戦的な生き方指南。または「ケータイのメールを友達から受け取った らX分以内に返信しなければならない」という無意味な縛り(掟)。あるいは、 「薬(毒)」的な物質が引き起こす化学反応に過剰なまでに依拠した言説 (「遺伝や免疫系に関する事象は、詰まるところ化学的な反応なのだから、何 人たりともこれを否定することはできない」とか)、または数学的物理学的真 理が常にグローバルないしユニバーサルに妥当するという盲信(「三角形の内 角の和は180度、これはどんな宇宙人にだって通用する真理である」とか)。

    あと、フリーソフトウェアのユーザは同ソフトの作者に対して金を払う必要は ないが、何らかのフィードバックや評価ポイントを返すべきであり、そうでな ければ少なくとも同ソフトの作者に対して感謝の気持ちを払う(レスペクトを ペイする)べきだ、それがフリーソフトウェアの作者に対する人間として最低 の礼儀だ、なんていう奇妙な返礼道徳を主張する言説も、正にこの「I/O強迫」 の典型的な症例だ。 (2009/5/29 改訂&付記)

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