プログラミングは「男の世界」か?
Does the hacking belong to the realm of men?


オープンソースムーブメントの支持者達が無自覚に肯定する男性的欲望
についての批判的考察

それでも私が unix 文化を好む理由。「unix 哲学」(The unix philosophy)の担い手の中には、例えば次のような名言を吐く人が存在するから :

UNIX カーネルプログラマの中にはシェルスクリプトプログラマを軽視する人が少なくない。 シェルスクリプトを書くのは「マッチョでない」というわけだ。

(「UNIXという考え方」、Mike Gancarz 著、芳尾桂 訳、オーム社刊、2001 年より引用)
この原文は以下の通り:

Before entering into this discussion, I must caution you that many Unix and Linux kernel programmers disdain shell script programs. They believe that writing shell scripts is not the macho thing to do.

("Linux and the Unix philosophy", Mike Gancarz, Digital Press, 2003, p.80より引用)

ところで、驚くべきことに、日本語版では "shell script programs" を「シェルスクリプトプログラ」と誤訳している。自分と異なる分野のプログラマを平気で disdain する人種が日本という国のプログラマ達なのだ。

Father forgive them, they don't know what they do.

父よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分達が何をやっているか知らないのです。 どうか彼らの心に染みついた 素朴な同心円モデル・合わせ鏡モデル・再帰モデルに基づく現世主義的価値観をお許し下さい。彼らはそれしか知らないのです。

As far as Torvalds was concerned, he was simply the latest in a long line of kids taking apart and reassembling things just for fun. (Sam Williams, in "Free as in Freedom, chapter 9" )

Linus Torvalds に限って言えば、彼は、「単なる楽しみのためだけに 物を分解しては組み立て直す少年達」の血統を受け継ぐ者の最新バージョンに過ぎなかった。

I realized that God's a young man too.

我悟れり、神もまた若き男性なりしと



はじめに

最近、日本ではコンピュータ関係の本や雑誌がいよいよ売れなくなっているそうです。 実際、Linux 関係の書籍の発行数はここ数年で激減し、かつての勢いはすっかり消え失せている状態です。 特に、雑誌関係はどこも火の車らしく、日本では 2002 年と 2005 年に Linux 関係の月刊誌が 2 誌廃刊となっています。 私にしてみても、2005 年現在、日本のコンピュータ雑誌は一冊も購読していません(って威張ることないけど)。これは、日本のコンピュータ雑誌は、どれもこれも対象読者の知的水準があまりにも低く設定されているために、読んでいると不快になってくるからです。これは例えば、いわゆる「青年誌」や「ポルノ雑誌」を読むと不快になるのと同じ理由なのであって、自分とはかけ離れた読者類型を主たる対象としている雑誌を読むのは非常に苦痛なのですね。 それに数年前に全ての日本のコンピュータ雑誌の購読をきっぱり止めたところ、別に日本の雑誌なんて全然読まなくても「なんだ、大丈夫じゃん」てこと、すなわちそんなもん読まなくても実際の知的生活上何の問題もないことを経験的に知ってしまったからです。

加えて、私の場合、数年前に「Linux で天下取っちゃる!」とばかりに意気込んで、Linux カーネル読解に張り切ってトライしたことがあり、その時ありとあらゆるカーネル本やオンラインドキュメントを読破した(ウソ)のですが、それらの文書の内容に関してはいずれも「期待してたのとなんか違う」「肝心なことが書かれていない」という感を拭えず、とは言えそれらを咀嚼した上で自分の言葉としてカーネルの仕組みを判りやすく表現するまでには遠く及ばず、その結果深い無力感におそわれ、意気消沈の状態が現在も続いているという事情もあります。もしかして、現在多くの人々が、コンピュータ書籍や雑誌に関して私と同じような嫌悪感や意気消沈感を抱いているのではありますまいか。

あのですね、よくコンピュータ雑誌なんかで、 プログラミング初心者を鼓舞する意味で「プログラミングは楽しい」とか言う 人がいるけど、それって読んでてすっごいウザイんで、初心者の鼓舞という目的には逆効果ではないでしょうか。 昔、「オープンソースは楽しいのだ」というタイトルの文章が何かの雑誌に載っており、一体オープンソースの何が楽しいのかと思ったら、みんなで力を合わせてオープンソースコミュニティを運営するのがとっても楽しいとか書いてあったりして、なんじゃそりゃ、学生のサークルと同じノリかよ、トホホ<タメイキ>って泣きたくなったことがあります。

それに、誰とは言わないけど「自分で作ったプログラムが動くのを見たときの達成感は何事にも代え難い」とか「寝食忘れてハッキング(ぷ ぷっ)に熱中した時の高揚感」とか「プログラミングの楽しさをみんなに伝え たい!」とか語る人に限って、結局言ってることは「ボクっ てこんなにプログラム書けるヒトなの、すごいでしょ?」的なドーダ (自慢)話に過ぎなかったりして、まあ読んでて退屈でゲロが出ちゃう。

そんなわけで、もうそろそろ 「なぜプログラミングは楽しいのか?」を根本的に考えた方が良いのでは、と思う。すなわち、ある程度知的水準の高い読者の関心を惹きつけるためには、例えば、「このプログラムはすみからすみまでワシがこの手でつくりあげたんじゃあ!」という達成感は、「革靴を自分一人の力でピッカピカに磨き上げた時に得られる達成感」や「シャベル一本で大きな穴を地面に掘りあげた時の達成感」と一体どこがどう違うのか、というような哲学的なレベル(でもないか)の問題へと読者の思考をいざなうことが必要なのでは、と言いたいのです。

なぜプログラミングは楽しいのか? その答えの一つはあまりにも明らか で:「自分が神になれるから」 だ。



非常に狭い世界(realm)ではあるけれども、その世界の中では自分が神にな れる可能性があること − そして、コンピュータプログラミングの場合、プ ログラマはその「世界の創造主」という立場からして、例えば「小説の作者」 などとは比較にならないほど具体的な「力」を有しており、現実的にも「神」 の位置に限りなく近いこと − これこそが主として男性を惑わす「プログラミ ングの魔力」の正体である。

プログラミングの魔力に目が眩んだ男性が抱える「あぁっ、プログラミング技 術を究めたい!」という全身の毛穴から吹き出るような欲望とは、ごく率直に 言ってしまえば、「非常に狭い世界だけれども、その世界に関しては全てを知 りたい、そして究極的にはその世界を自分自身でコントロールしたい」とい う、あまりにも身勝手で小児的な男性的欲望に他ならない。私(筆者)は現在 40 代半ばの男性なので、かつてこの種の突き上げるような欲望に取り付か れたが故にコンピュータプログラミングに関して積極的にのめり込んだ人生の 一時期が自分にもあったことを認めるにやぶさかでないし、現在その種の「ひ りつくような」欲望に駆り立てられている若い男性の心情もよぉーく判る(ような気がする)。

と言うわけで、本エッセイでは、「Linux カーネルプログラミングの世界に関 してはその全てを知りたい、そしてその世界を自分でコントロールした い」という欲望に駆り立てられ、一応トライはしてみたものの、結局はその欲 望の充足に失敗した(まぁ、大抵失敗する)中年男性が、それでも特に絶望もせず 何とか建設的に思考しつつ生きていくためのヒントになるかもし れない文章、を綴ってみたい。

  1. ハッカー氏はいかにしてミソジニスト(女性嫌悪者)となりしか

    How could Mr.Hacker be a misogynist?
    Who knows? Not me. We never lost control.(David Bowie, 1972)

    コンピュータ・プロセスには性(sex ないし gender)がない。このため、複数のコンピュータ・プロセス間には性的差異("sexual difference" または "gender difference")が存在しない。しかし、現実に対処しなければならない個別存在者には多くの場合「性」があり、複数の存在者間においては性的差異が絶えず「生成」される。そう、問題は「生成」という現象に対していかなる態度をとるかのなのだ。コンピュータ・プログラマやシステム管理者を長く担当していると、自分が知らず知らず女性や子供に対する抑圧者として振る舞っている場合があることに気付く。「いや、俺はそんなことない、俺はいつも女子供に優しく教えてやってる」と言うアナタ。この典型的な物言いの中にどれほど性的差異に対する鈍感さが含まれているかを、アナタは「フェミニスト」の人から指摘されるまで気付くことがない。そしてそのことを指摘されるとアナタは不快になる。それを指摘した「フェミ」の人に対してアナタは何か底意地の悪い「お返し」をしたくなる。そこで陰湿な嫌み(と言ってもせいぜい「なんでぇ、不細工なツラしやがってよぉ」とか)を言い返したところ、アナタは今度は別の「フェミ」からアナタの幼稚な無応答物嗜癖(希釈された necrophilia = 「アニメ好き」とか「フィギュア好き」のことを指す)に関して嫌みの「倍返し」をくらう。そこでアナタは...and so on。性的差異を巡る不毛な言説はこのようにして経済的に循環する。<<ここでもっと性的差異に関する事例を述べる>>

    事ほど左様に、 映画や小説などでもプログラマ(男性とは限らない)は女性嫌悪者として表象されることが多いが、なぜそうなってしまうのか。その根本的な理由は、結局、性的差異に代表される「それを固定化・対象化するようなメタレベルが存在しない」事象すなわち「当の本人でさえコントロールが及ばないところで生成される」事象に対してはそもそも論理的にコントロールが不可能なのだが、それを認めたくない万能感の持ち主(男性とは限らない)は、そのような制御不能なものを「取るに足らぬもの」として嫌悪するか、または「不可知なもの」として敬して遠ざける傾向があるからだろう(はたまた、制御不能なものを「神聖なもの」として崇め奉るという反動的な傾向や、遺伝子や素粒子といった素朴な外在的物神に依拠することで(自分野以外の)「メタ潰し」を謀る向きもある)。要するにですね、制御不能なものを目の当たりにすると「フツーじゃなくなる」ようなのですね、万能感の持ち主(男性とは限らない)って奴は。これに対して、コンピュータ・プロセスは扱いやすくてとっても楽、というワケだ。

    コンピュータ・プロセス(以下、単に「プロセス」と表記する)の「扱いやすさ」と、その以外の様々な生成事象の「扱いにくさ」、この決定的な違いはどこから来るのか。例えば、プロセスを殺す(kill a process)という隠喩があるが、プロセスを殺す行為と生物を殺す行為とでは、一体どこがどう違うのか。これらの行為が持つ意味の違いは、 プロセス制御のたやすさと自我コントロール(自分自身の人格の制御)の難しさという問題にもパラフレーズされるだろう。 自我というものは不思議なことに、放っておくと、どうもいとも簡単に善と悪とに分離ないし乖離してしまうようである。 そのような分裂する複数の自我を完璧にコントロールする(または完全なコントロールが可能である/完全なコントロール権があると 思いこんでいる)主体は、ワープロ等のコンピュータアプリケーション操作のレベルでは「管理者ユーザ」として表象される。管理者ユーザと一般ユーザの階級的な対立は非常に判りやすい。昔、『root(ルート)から/(ルート)へのメッセージ』というタイトルの書籍があった(ここで、「あったあった」、とおたく頷く)が、これなど UNIX 管理者が特権階級的に振る舞っていた時代を思わせて感慨深い。今では誰もが UNIX 管理者になれる(ただし、多くの場合、自宅のパソコン上という「非常に狭い世界」だけでだが)。OS の内部におけるプロセス制御まで踏み込んだ場合、管理者ユーザ / 一般ユーザという対立関係以前に、そもそも「カーネル・プロセス」と「ユーザ・プロセス」というマスタ/スレーブ関係が存在するため、やや話が複雑となる。しかし、実際には、カーネルとて、全てのプロセスを完璧にコントロールすることは不可能なのである。Linux カーネルの実装では、この不可能性がどのように捉えられているか。

    Linux カーネルには、プロセスの生成を受け持つ機能として、その名もズバリ clone というシステムコールが実装されている。クローン生成(クローニング)とは「同じもの」のコピーをもう 1 つ作成することである。コンピュータの第1号機が完成したとき、「よし、次は男のコンピュータと女のコンピュータを作ろう」とジョークを言ったのは誰だったか。

    「よぅ、ゾンビ=我が友人、もいちど生き返ってくれよ」(Steely Dan)。 ゾンビ(zombie)プロセスと呼ばれるプロセスがある。オーファン(orphan=孤児)プロセスと呼ばれるものもある。 ファミリー・ツリーの枯渇した比喩。整数の順序関係を親子関係に喩えたのはラッセルではなかったか。

  2. 指呼の間: 命名の具体(歴史)性と生成の直接(無媒介)性、名前空間(namespace)

    コンピュータプログラミングの観点からクリプキ『名指しと必然性』を読み直す試み。『名指しと必然性』は、講義録ということもあり、非常にユーモアに富んだ書物です。確か、「論理的固有名としての X」に関するくだりでは、「私の知る限り、X という固有名を持つ人物はアメリカには一人しか居ない(即ち Malcolm だ)」という冗談があった。これは、論理的固有名という具体性・歴史性を一切とっぱらった抽象物に固執したバートランド・ラッセルに対する痛烈な皮肉なのだ。

    ところで私は昔、MS-DOS のファイル名(最大何文字までだったっけ?)を名付けられないで困っている人を間近で見たことがある。命名を行うにはそれなりの知性(バックグラウンドやトレーニング)が必要なのだなぁ、とその時思った。

    固有名の命名という行為は、まさに私とあなたと当の指示対象の3項関係において、あたかも「これ!これ!」と指で示しながら当の対象の名を連呼しつつ(これぞまさしく「指呼の間」で)行われる具体的かつ歴史的な行為(いや、「歴史的」は大袈裟にすぎるので、ここは「日付を持つ行為」とクールに言い換えよう)である。名付けは指示対象の「名無し状態」を前提とする。つまり、真の命名が成立するためには、私とあなたの2者が了解している直接指示対象が「名前をまだ持っていない」状態に置かれている必要がある。指示対象がすでに何らかの名を持っているのであれば、それに前と異なる名を付ける行為は「命名」(naming)ではなく「改名」(renaming)と呼ばれなければならない。

    子供の名前を付けた経験がない人は、 ファイル名の命名、自分が作成した関数名、あるいはプログラム中の変数名の命名を考えてみよ。儀式を伴わない、いかなる小さな "God awful small affair" な命名であっても、命名という行為は、それぞれが歴史的な一瞬を形成する(=即ち、「タイムスタンプを持つ」ということ)。ノスタルジアに結び付かない固有名はない=固有名は全て何らかのノスタルジアに結び付けることができる。歴史は固有名を産み、そして廃れさせる。固有名を使用した会話は、ある特定の歴史を共有している人同士の間でのみ成立する。逆に言えば、歴史を共有していない人との間では、固有名を使用した会話は成り立たない。例えば、"Malcolm X" という固有名を使ったジョークも、黒人運動の歴史を知らない人にとっては全く通じないだろう。<<Linux の発音と、printf、atoi 等の関数名の発音についての話。発音されることを前提としていない文字列、純エクリチュール>>

    「Ca.sa.no.va -- って、地名?それとも人名?」。固有名が土地の名前であるか人の名前であるかによって何が違うのかというと、その名が担う歴史性ないし社会性が大きく異なる。例えば「あだ名」(alias)を考えてみよ。人名も戸籍に登録する場合には一人では決められないが、地名は更に多数性を伴う。(更に、こう言って良ければ)地名は政治性をも伴う。これに対して、プログラム中の様々な固有名はどう違うか。

    おぉ、真珠母貝よ、きみを他の女の子とトレードするなんて、僕には考えられないよ

    プログラム中のラベル(label)、引用符 "" についての考察。シンタックスとセマンティクス。プログラム中の変数名、メモリ上での変数内容の参照、オブジェクトとインスタンスについての考察。

  3. 「プロセスを殺す」という隠喩について、あるいはビスケットの中心は頓呼法(apostrophe)だと叫んだ小犬


    飼い主から呼びかけられた犬が当の飼い主に対して次のように語る。『ある時、誰かが俺に「あなたの一貫したテーマは何ですか(What is your Conceptual Continuity?)」と聞きやがった、で、俺はその野郎にこう言ってやった、「簡単なこった、ビスケットの中心は "apostrophe" だ」(The crux of the biscuit is the apostrophe)』(フランク・ザッパ『Stink-foot』より)

    プロセスを殺す(kill a process)という隠喩があるが、プロセスを殺す行為と生物を殺す行為の違いを考えてみよう。これら 2 つの行為には「天と地ほど」の違いがあるのか、それともさほどの違いはないのか。架空の小説家志望ブロガー(いるいる)ならば「違いはない」と言うだろう。それどころか、現実にはプロセスを殺した方が高くつく場合もある、例えば、証券取引システムの基幹プロセスを誤ってキルしてしまったらそりゃあ高くつくよ、などと言うかもしれない。実際に「猫を殺す」ことと、「私は猫を殺した」とブログで告白すること(または「猫殺し」の小説を書くこと)との違い。実際に「人を殺す」ことと、「私は人を殺した」とブログで告白すること(または「人殺し」の小説を書くこと)との違い。実際に(食用に)「牛豚鶏を殺す」ことと、「私は牛豚鶏を殺した」とブログで告白すること(または「牛豚鶏殺し」の小説を書くこと)との違い。それらの(おそらくは誰が語ったとしてもどっかで聞いたような既視感のある同じ様な)告白は、一体誰に向かって語りかけられるのか。おぉ、少年よ。

    人間以外の動物は、通常、いかなる言語による問いかけ(呼びかけ、語りかけ)に対しても、言語を使用した応答 を返すことはない。ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね、という問いかけに対しても、象は言語では応答しない。鳴く、吠える、噛む、体を擦り付ける、鼻を振り回す、脚で踏みつぶす、などの言語によらない応答ならば可能だが。牛馬(=家畜の代表)の無応答性と犬猫(=ペット生物の代表)の無応答性と石(=無機物の代表)の無応答性の違い。石はいかなる問いかけにも(言語によっては)応答しない。もしも石がしゃべったりしたらえらいことだ(腰抜かすよ)。しかも、呼びかけた当人の思惑や予想をはるかに超えた言葉を返してきたとしたらどうなるか。「まぁ、要するに修辞学的に言えば頓呼法だわな、お前が何とかして価値を上昇させようとしているものは」とかなんとか。そこまでいかずとも、思わぬ応答を受け取った場合の例: 古株ネットワーカー の A 氏は、ニュースグループ上の投稿に含まれていた奇妙なシグニチャ(絵文字を立体的に見せるためのアスキーアート)に関して B 氏が投稿した「あの妙なシグニチャは何を表しているのか?」という質問を見て「バカな質問すんじゃねー、見て分からんのか、お前はメクラか!」と脊髄反射。ところがその後、質問者である B 氏は実は盲目であり、常時「読み上げソフト」を使ってニュースグループ上の投稿を閲覧していたことが当の B 氏の応答により明らかにされた。それに対して、A 氏はどう応答したかって?忘れた。多分何も応答しなかった。おぉ、少年よ。

    (人間の)妊娠中絶やクローニングでは「どの時点からを人間と認めるか」が問題となるらしい。乱暴ではあるが、人間と「人間でないもの」との違いを、「言語を介した応答を返すか否か」だけに絞ってみよう。すると、「胚」はもちろん、胎児や乳児ですら言語を経由した応答を返すことがない。では、言語を経由した応答を返すことがない(と思われている)これらの対象への語りかけには果たして意味(=価値)があるのか。当然あるさ、と答えたくなる。しかし、では、プログラムされた(想定ないし予期された、あるいは「計算された」)言葉以外を返さない(と思われている)事物(例: データベース検索機能付きビニール人形)への語りかけには果たして意味があるのか。おぉ、少年よ。

    ここでの問題の核心(=問われているもの)とは(たかだか)修辞学的な頓呼法(apostrophe)であり、それを行使することの意味ないし価値なのだ(バーバラ・ジョンソン の 「頓呼法」(apostorophe)と「活喩法」(personification/animation)と「堕胎」(abortion)に関するスルドイ分析を参照)。

    同様に、頓呼法の典型的な使用例である、死者への呼びかけはどうか。死者に語りかけても無駄(=価値はない)ではないのか。というのも、死者は「言語によっては」応答を返さないからだ。あなたは今、言語を経由した応答を返すことがない(はずの)事物に対して語りかけているが、その行為には(儀礼的な)「弔辞」または(すり切れた退屈な)「詩」として以外の現実的な意味や価値があるのですか、という問い。ここで架空のエッセイスト志望ブロガー(いるいる)ならば、「価値はない」と言うだろう。頓呼法の価値はここまで下落した。これもストレート勝負の潔さ(=経済性、簡便性、単純性)がもてはやされた結果なのか。おぉ、少年よ。

    一方、「言語を介さない応答」というものもまた厳然としてあるのではないか。そのような応答は過去にもあったし、現にぼこぼこと、そこらじゅうに生起しているではないか。例えば、言語化されないルサンチマン(の我慢大会的な蓄積)が一気に噴出するとき(独裁者たる「天才プログラマ」とか「本物のハッカー」に対して一般ピープルが持つ言語化されない羨望の爆発がコンピュータ業界でいずれ起こる予感。警戒せよ、驕れるプログラマ達よ、汝らの没落の日は近い)。古くは、<<英訳せよ>>自然は復讐する(『鳥』)。東京にいる烏を大量捕獲して虐殺しようとした都知事がまたも当選したらしい。「言語の暴力」という慣用表現があるが、言葉を一切伴わない「有無を言わせぬ」暴力というものも想像できなくはない。だが注意せよ。今の君には無意味な叫び声にしか聞こえなかったかもしれないが。君はまだ十分に○○からの応答を読んでいない。○○からの応答をまだ十分に待ってもいないし、そもそも○○に問いかけてもいない。おぉ、少年よ。

    しかし、頓呼法もなしで、人は誰に向かって語りかけることができよう。と言うより、要するに、これまで私を心底感動させてきた「かの人々」の行為とは、ちょっとやそっとでは応答しない(かに見える)二人称への呼びかけだったのではないか。即ち、頓呼法としての「ヘイ、ユー」

    死者との対話なら Ouija Board 経由で十分可能だろう。Lou Reed の "My house"(in the album "The Blue Mask")の歌詞を参照。Ouija Board とは、想定ないし予期された、あるいは「計算された」言葉を返す機械(というよりは「道具」)である。和訳せよ、"In Dreams Begin Responcibilities"(By Delomore Schwartz)、夢(複数)の中で責任(応答可能性、複数)が始まる。活喩法、プロセスは語る、いや、プロセスは語らない。プロセスは「日常言語を通しては」語らない。活喩法にはまだ価値があるとでも言うのか。「私とは宇宙という OS 上で実行されている一つのプロセスである」("I am a process running on the operating system called the universe")というのは胡散臭スピリチュアル風文言のパロディとしてなら使えそうだ。と思ってたら「私は主体無きプロセスである("I am a process with no subject")」という書籍が実際に存在する(Philip Beitchman 著、ベケットやブランショ等に関する脱構築批評らしい)。おぉ、少年よ。"Across the universe" を「宇宙を超えて」と平気で翻訳できる人にとっては「the universe の外」も当然存在するし、複数の universes も何の論理的矛盾なしに存在するのだろう。多分、そこでは、個々の企業システム同士がそれぞれ独立したサイロ(silo)として複数存在しているように、「孤独なシステムとしての宇宙( the universe)」が複数存在することが想定されているのだ。さらに驚くべきことに「脳科学者」が書いた『プロセス・アイ』というタイトルの小説が 2007 年の日本には存在しており、これは多分 "process, I" であり "process = I" ということだろうから、ひょっとしてこの小説は、 「『私』とは何か?」という哲学上の問題に対する最先端の脳科学者からの回答として「『私』とは 1 つのプロセスである」(そして「『お前』も 1 つのプロセスに過ぎない」)という涙が出るほど "swell" な洞察を提出しているのだろうか?おぉ、少年よ。

    「私(お前)は another brick in the wall に過ぎない」「私(お前)が現実だと感じている世界は実は私(お前)以外の誰かにより巧妙にコントロールされている」をテーマとする小説や映画は昨今おびただしい数存在するようだが、これらに通底する「私(お前)とは 1 つのプロセスである」=「私(お前)とは複数存在するプロセスのうちの 1 つである」という達観(?)とは、詰まるところ、システム管理者的な世界観を有する人間が取りがちな「私(お前)とは 1 つのシステム上で実行されている多数のプロセスのうちの 1 つであって欲しい」という願望なのではないかとも思える。システム管理者(system administrator, sysadmin)とは、当該システムにおける root 権限という絶対的権力を所有する立場にある人物であり、システム上で生成されるすべてのプロセスを「殺す」ことができる権限を所有する人物である。システム管理者やプログラマという人種(もしくは「階級」?)はある独特の思考パターンを有しているが、その思考パターンはまだ十分に分析の対象とはなっておらず、適切な名前も付けられていないため、これを取りあえず「sysadmaniac(シスアドマニアック)な世界観」と呼ぶことにする。

    sysadmaniac な世界観は、システム管理者という「1つのシステムにおける絶対的権力者」が取る独特な思考パターンに基づいている。そこでは、他なる複数のシステムがローカル(自社)システムの外に存在すること、および、自らが所有する権限が(多くの場合、自宅のパソコンやサーバ上〜学校や会社等の組織が所有するサーバ上という)「非常に狭い世界」の中での絶対的権力でしかないことが強く意識されている。更に、システム管理者は、ローカル(自)システムへの限りなき傲慢さと、他者のシステムに対するある程度の謙虚さ(またはそれが反転した形の「内への謙虚さ」と「外への限りない傲岸さ」)とをコントロールしつつ、これ以上の「メタ」がない最先端かつ最高レベルの視点をいきなり獲得した上で、いかなる内省も行うことなしにその権力を持続的に行使できてしまうのである。ここに「ズル」がある。自らが(易々とまたは少しばかりの努力で)入手した権力に付随する歴史的な意味を一切問うことなく、その権力を行使できる立場に安住することは、例えは悪いが、チェンマイでメイド付きの年金生活を送る定年退職者と同様の「ズル」だ。彼らは自分達がズルであるとの批判に対して決して応答することがない。だがそれはズルだ。それがズルではないのなら他の何がズルなのか?

    sysadmaniac な世界観を的確に批判することは、今時の若いもん批判のようには簡単ではない。 sysadmaniac な世界観は、コンピュータ・ゲームで育った今時の若者を批判する言辞として使われる「リセット指向」とはレベルが全く異なる。例えば、面倒になったら取りあえずリセットしちゃえばいいじゃん的な easygoing 性は、ゲーマーには当てはまるかもしれないが、システム管理者には当てはまらない。ゲーマーとは逆に、通常、システム管理者はマシンの頻繁なリセットを嫌う(なぜならシステムを不用意に止めたくないから)。システム管理者の行動はゲーム・ユーザよりもはるかに複雑かつ高度であり、職種としても非常に新しいため、システム管理者的な世界観はこれまで正面切って問われることがなく、当の管理者自身もそれを反省的に問うこともなく現在に至っている。むしろシステム管理者なりプログラマという階級の持つ思想的ないし歴史的な意味を一切問えずにいることこそが、sysadmaniac な世界観の最大の特徴と言えるかもしれない。プログラマは「なぜプログラミングは楽しいのか?」を問うことがなく、システム管理者は自らが棚からぼた餅的に有することになった「1つのシステムにおける絶対的権力」(それは多くの場合「自宅のパソコン上」という極端に狭い環境ではあるが)の歴史的な意味(それはどこから来てどこへ行くのか)を決して問うことがない。そろそろ 40 代半ばになる「パソコン世代」がこのような問いを未だに発せずにいることも、見て(読んで)すぐに理解可能な「分かり易さ」(=経済性、簡便性、単純性)のみが賞揚された結果には違いない。反省せよ、驕れるプログラマ達よ!悔い改めよ、タナボタ的に獲得した権力の座に安住する小ずるいシステム管理者達よ!

    私も少し反省しよう。おぉ、少年よ。 私はまだ十分に○○からの応答を読んでいないし、○○に問いかけてもいない。




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