『ヨーロッパ式の大砲』(勃起した男根の象徴)ここにありとは?


--- I'm a phallus in pigtails.
--- 我は捻って結んだ男根なり
(アルバム『Space oddity』収録、 "Unwashed and somewhat slightly dazed" より引用)


さあさあ痩せっぽちの白んぼ公爵様のご帰還だ 愛人どもの目を投げ矢で打ち抜くために 痩セッポチノ白ンボ公爵様ガ帰ッテ参リマシタゾ! 我等此処ニ在リ 其処カラ夢ガ紡ガレル 一ナル魔術的瞬間 屈曲スル音ハ 海底ヲ浚イ遂ニハ 我ヶ円陣ヘト消エ失セリ 我此処ニ在リ 色一ツダニ出サズ 此ノ部屋ニ在リテ 大洋ヲ見下ロス 我等此処ニ在リ Kether カラ Malkuth ヘノ 一ナル魔術的移動 汝其処ニ在リ 「ステイシヨン」カラ「ステイシヨン」ヘノ 魔性ノ如キ疾走 痩せっぽちの白んぼ公爵が帰って来たぞ 愛人どもの目を投げ矢で打ち抜く気だぞ 痩せっぽちの白んぼ公爵が帰って来たぞ 愛人どもの目を投げ矢で打ち抜く気だぞ 痩せっぽちの白んぼ公爵が帰って来たぞ 白い痕跡(しみ)を確かめる気だぞ かつてそこには山々が連なり かつてはそこに広き川が流れ かつてそこには鳥が群れ舞い上がり そして かつての俺は決してくじけることなく 「真理」とやらを探しに探したものだ 『俺が信ずるに足るものとは一体何か? 愛をもって俺に接してくれる者は一体誰か? 誰? 誰? そしていつ?』 …てな訳だ 「真理」という あの掴みどころが無くしかも内気な宝 (おぉ、まさにそれは「女」だ!) を 誰があれほどまでに激しく 追い求めたことがあっただろうか? マァ良イ、今ハ我ト汝ヲ守ッテクレル屈強ナル男共ニ乾杯シヨウデハナイカ サァ飲メ、飲ミ給エ、杯ヲ空ニシ給エ! モット杯ヲ高ク掲ゲ給エ! さて、しかし、では今俺を突き動かしているこの切迫した感情は一体何だ? 単なるコカインの副作用か? いや、そうではない

俺は、それは間違いなく 「愛」 だと思う

だがもう遅い 遅すぎる これは 二度と再び遅くなりようがない、決定的な手遅れだ 我々白人男性は今や 謙虚に振る舞うこともできないし 憎まれ役に徹することもできない そうしようにも、もはや手遅れなのだ

今ここにあるのは 力ずくで他者を征圧した (即ち円満なる性交のタイミングを完全に逸してしまった) ヨーロッパ式の大砲 (勃起した男根の象徴)

くそ 俺様は百万人に一人の偉大な人物なんだぞ そんな俺が あの黒ンボ女なしでは一日も過ごせなくなるとは くそ なんてこった だがもう遅い 遅すぎる この俺は今や 「女」というものに対して 憎悪に溢れた態度を取ることも 感謝の念を抱くこともできない そうしたくとも、もはや手遅れなのだ 俺は本当に打ちのめされているのだろうか? それにしては、俺の白い顔はやけにイキイキと紅潮してはいまいか? だがもう遅い 遅すぎる 黒人よ、ネィティブ・アメリカンよ、白人により征圧されたすべての者たちよ! お前たちは今やもう 自分たちの共同体を破壊した白人に対して憎悪を向けることもできないし 自分を共同体から解き放ってくれた白人に対して恩義を感じることもできない そのようなアンビバレントな感情を持つこと自体が もはや完全に時代遅れなのだ ここにはただ 動かし得ない歴史的事実として お前たちを暴力的に征圧した あのヨーロッパ式の大砲があるだけだ 遅すぎる 遅すぎる 遅すぎる 遅すぎる 遅すぎる 今ここにあるのは アフリカや新大陸で他者を力ずくで屈服させた あのヨーロッパ式の大砲だ
最終更新日:20120522(一部改訳)


1999 年に出たアルバム『Station To Station』の EMI リマスタ版にはかなり 正確な歌詞の聞き取りが添付されているので、少なくともフツーに英語が読め る人にとっては、長年「謎」とされてきたタイトル曲の歌詞の意味を理解し、 それが含意する深遠かつ高尚な(って褒めすぎか?)ある種の「文学性」を味わ うことができるようになりました。これは非常にメデタイことです。

David Bowieという人は非常に不幸な人で、特に日本では誰も彼の書いた詩を まともに翻訳して紹介した人が居ないのですね。あ、妄想チックで自己満足的 な思いっきり誤訳や、構文/イディオムすら読めていない滅茶苦茶な「超訳」 (日本版に添付されている訳詞っすね)なら過去にもあり、Web サイトにも豊富 に公開されています(まぁ本サイトもその 1 つなのだが)。本作についても、 誰もが「歌詞がすっごく良い」などと言ったりもするのですが、じゃあタイトル曲の サビの決めの台詞である "The European cannon is here"って一体どういう意 味なの?と聞くと、「えーと、それは結局、誰にも判りません」という答えが 返ってきたりして、まるで小松左京の伝説の怪談『牛の首』の寓意を地 で行くような悲惨な状況が今も続いているようなのですね。

そこで、この不毛な状況を打破するために、私はここに David Bowie の主要曲の訳詞 を行うことを決意しました。今回は、アルバム『Station To Station』のタイトル曲の全訳を紹介し ます。

ところで、David Bowieの楽曲の魅力の源泉は、サウンドではなく、言葉(歌 詞)の持つインパクトにあったと思います。逆に言えば Bowie の楽曲はどれ もこれもサウンド的にはイマイチ食い足りないのですね。例外的にサウンド もどうにか聴けるものとしては、『Pinups』(ドラムが Zappa スクール出身の Aynsley Dumbar でこれが叩きまくり、ミック・ロンソンのギター・アレンジもバッ チリでこれがグラム・サウンドの絶頂期かも)、『David Live』(ベースが Herbie Flowers でかなり弾いている、でも録音が低音を拾ってないケースが 多く残念)、イーノが全面的に絡んだ『Low』(特に B 面か)と『Lodger』、そ して強いていえばこの『Station To Station』(アナログ版の方がベース音が 断然良い!)くらいでしょうか。

Bowieの楽曲の特徴として、もともと生ギター一本での演奏を想定した楽曲が 多いこともあり、ギターとドラムはともかく、とにかくベースが弱いんです。 そして、その「突飛な」コード進行に合わせるべきベースラインが日本の歌謡 曲並に凡庸なので、ある程度耳が肥えた人には「聴いちゃいられない」んです。 中でも一番ひどいのがアルバム『The man who sold the world(邦題: 世界を 売った男)』のベース(弾いてるのはプロデューサの Tony Visconti)。そし てその中でも "She shook me cold" という曲のベース、最悪です。基本的に 技術のない人が無理矢理テクニシャンの真似をするとこうなる(*注)、という悪い見本 で、頻繁に弦の上で指をスライドさせるとこなんか聴いてるこっちがいたたまれなくて真っ赤に なってしまいます。

(*注)因みに、 Tony Visconti の Web サイト によれば、彼は「当時クリームにハマっていたミック・ロンソンに要求されてジャッ ク・ブルースの真似をした」のだそうです。

『世界を売った男』自体のアルバム・コンセプトは、当時勃興しつつあったヘ ビィ・メタル音楽の演奏者と聴き手があまりにも無自覚に共有していたあから さまな男根中心主義(*注)に対するきっつい「解毒剤 - antidote -」であり、歌詞的には読むべきものも多いです。

(*注)ヘビィ・メタル音楽の男根中心主義を代表する最も有名なフレーズは、Led Zeppelin の "Dazed and confused" という曲の歌詞 "The soul of woman was created below"ではないでしょうか。 この恐るべきフレーズをここで翻訳する勇気を私は持ちませんが、多分「女は下等動 物だ」というような意味ではないかと思われます。
しかし、いかんせんサ ウンド的には「プラスティック・ソウル」ならぬ「プラスティック・メタル」 とでも呼ぶのが適切かと思われるへなちょこ演 奏に終始しており、例えばツェッペリンとかハンブル・パイとかの「本物の」 ヘビメタを聴いた後に『世界を売った男』は絶対聴いちゃいけません。同様に、 例えばスライ&ファミリーストーンとかの「本物の」ソウルを聴いた後には 『ヤング・アメリカンズ』は聴いちゃいけません。

なお、「プラスティック・ソウル」について二言三言。もはや常識ですが、これは Bowie の造語 では全然なくって、60 年代にある黒人のブルースマンがミック・ジャガーのボーカル を評した言葉(であるとジャガーが何かのインタビューで語ったことがある?)なのですね(*注)。知ってた?

(*注)このエピソードの出典は、ビートルズの『アンソロジー2』の 解説であり、同アルバムでは、ポール・マッカートニーが 『I'm down』のノリノリのデモ・セッションのエンディングで自嘲気味に "Plastic soul, man, Plastic soul" と呟いているのを聴くことができ ます。この物言いが面白いのは、「えぇ、あたしゃプラスティックですよ、見せかけだけの偽物ですよ、どうあがいたって本物にはなれない半端もんですよ、でもね、それのどこが悪いって言うんですか?」という一種の開き直りが感じられるからなのですが、 実際、ポップ・アートとその影響をモロに受けたロック音楽の世 界では、一時、「本物」に「プラスティック性」(複製、偽物、模倣、偽造、 物真似、猿真似、kitsch、大量生産)を対置させ、伝統的な評価基準とは逆に後者を賞 揚することが流行したのですね(例は膨大に挙げられるが、その走りとしては「ラバー・ ソウル」や「プラスティック・オノ・バンド」、あと '70 年代後半には「プラ スティックス」という日本のロック・バンドもあったね)。この「複製 礼賛」とでも呼ぶべき極めて近代的なメンタリティは、世代や 国籍を超えて存在する「ジャンクフード好き」によって支持されているエート ス(持続的な習性・性癖)にもしっかり受け継がれています。実を言えば、私も カップ麺や袋入りのインスタントラーメンが大好きなのですが、その根本的な 理由はなぜかと考えるに、『簡便化、簡略化、単純化、経済化、大衆 化されたレシピによる大量生産ラーメン』という商品の存在意義を私が是としているからに他なりません。 すなわち「一握りの人しかできなかったこと」を「誰でもできるよう にする」こと(言うなれば一種の「解放 - emancipation -」)は基本的に 悦ばしいことだと私は思っているのですね。この考え方は、 有名ラーメン屋の頑固オヤジの秘伝の味付けによる手作りラーメンに付与される価値を 根底からコケにするものであり、ひいてはソースコードが公開されているコンピュータプログラムが存在しているのに相も変わらず「ハッカー秘伝のテクニック」的なマッチョな秘教性を賞揚するという痴呆を笑い飛ばすものでもあります。 だがしかし、話はこれだけでは終わりません。 私には、歴史的な見地から、例えば「食」に関するこのような複製礼賛メンタリティを改めて 的確に批判することが必要だと思われてなりません。 これは、簡略化(経済化)と機械 化の意義、形式化と歴史性の忘却、笑いとエコノミー(経済性)、交換または 代替の可能性と不可能性、アイデンティティ(ID、自らが当の本人であること) をどう捉えるかという大問題につながるような気がするため、この件に関しては別稿で検 討することにしましょう。

えー、話を戻しますと、Bowie のサウンドは、特にベースがせこかった、ということ でしたね。どうも Bowie 氏は、「ベースなんて、後ろの方でボンボン鳴ってりゃ いいんだよ、ベースごときがあんまり前出てくんじゃねーよ」とでも考えてい る節があります。すなわち、そのサウンド構築において、「弾けてない」ベー シストを使う、ていうか自分からは「弾かない」ようなベーシストを使って、 敢えて「弾かせない」ようにしている感じさえします。このような Bowie 氏 の「ベース(という楽器)に対する冷淡さ」は、例えば、ジョニ・ミッチェル、 ブライアン・フェリー、ブライアン・イーノ、ルー・リード等が超テクニシャン のベーシストをじゃんじゃん起用して、その豊かなベース音を要(かなめ)と した楽曲作りをしているのとは極めて対照的です。

このベーシストへの極端な冷淡さ は、例えばマッカートニーと別れた後のレノンの「屁たれ」(と言って悪けれ ば「退屈な」)サウンドを連想させます。Bowie はレノンを敬愛するあまり、常々 その片割れであるマッカートニーを憎悪または軽視していた傾向があるのですが、 もしかしたら、この傾向が強迫的に強まった結果、ついにはマッカートニーの 担当楽器をも軽蔑するに至ったのではないかと私は推測する(ウソです)。

更に思い出すのが、確か、 Bowie が Roxy Music の "If there is somethig" をカバーしたことがあって、その時にブライアン・フェリーがあるインタビュー で語ったコメントでして、フェリー氏曰く、「Mr. Bowie はアクターであって、ミュージシャンではな い」だったような気がします。そういえば、70 年代前半、特にイギリスでは 「レゲエ・アレンジを取り入れないミュージシャンはミュージシャンにあらず」 という風潮があった(あのツェッペリンですら '73 年の『聖なる館』でレゲ エ・アレンジを取り入れているのだから驚き)のですが、Mr. Bowie がレゲエ・ アレンジを取り入れたのはすっごく遅くて、確か 1980 年代中期(アルバム 『Tonight』)が初めてだったのではないでしょうか。いずれにしろ、Bowie 氏は「耳」的にも「手」的にも、あまり「音楽的」に秀でた人ではないのかも しれません。

『I don' like reggae(oh no, I love it)=レゲエなんか大っ嫌いだ(ウソ、ホントは大好き;-))』(by 10cc)。ただし、「レゲエ嫌い」の人の心情を弁護すると、70 年代前半まで日本の音 楽ライターの中には "reggae" をなぜか秘教的に「レガエ」と表記する者がい たりして(これはコンピュータの世界で "Linux" を 「りぬくす」、"squid" を「すくいど」と呼ぶあの小児的な男性達を連想させる)、当時レゲエは、レ コードの中心にある穴にペニスを挿入する儀式(あるいはレコードの溝をペニ スでなぞる儀式)を反復することに至上の悦びを感じるマッチョな大人の男達 が自らを差別化するために必要とした yet another な異教的ないし秘教的アイテム だったのであり、女子供が聴くものではないという風潮があったのでした。実例としては、当時の『ニュー・ミュージック・マガジン』とかいう雑誌の 周辺の、あの独特のいやらしいマッチョな雰囲気を思い出せる人は思い出して下さい。

もう一つ、その歴史的な証拠として、 なんとサザンオールスターズの『レゲエに首ったけ』という曲では、時 '78 年に至っても「レゲエはなんて最高(中略)女にゃわからぬ(中略)楽しやレゲエは/女よりいいや」と歌われていた ことを最近発見しました(右図参照)。












脱線ついでに、' 76 年にRVC から出たアルバム『ステイション・ トゥ・ステイション』のアナログ日本版の解説には「B 面などは、レゲエのア ルバムではないかと、とまどってしまった」(松本勝男、1976.1.31. 記)などと 書いてあるのですが、B 面 3 曲どこをどうとっても「レゲエ」には似てもにつ かぬ曲ばかりであり、この方が当時聴いていた「レゲエ」とやらは一体何だったのか、 70 年代の日本という知的文化的な野蛮状態にあっては別に珍しいことではないが、 この方も当時はレゲエという音楽のジャンル名を知っているだけで音楽そのものは全く聴いたことが なかったのであろう、と感慨深い。もう一つ、70 年代の日本の洋楽業界がいかに知的に野蛮であったかを示す例として、 今でも忘れられないのが、 キングから出たローリングストーンズの再発 LP に添付されていた解説に、『「黒くぬれ」という曲はずっと「黒く濡れ」だと思っていた』と書いてあったこと(何の LP で誰が書いたかは忘れた、誰か持ってたら教えて下さい)。一度でも「黒くぬれ」という曲を聴いたことがあるのであれば、絶対に「濡れ」だとは思わないはずなんですよー。なぜなら、サビで "Paint it black" としつこく連呼されるのがこの曲だからですよー。すなわち、ストーンズの曲は聴いたことない、のに臆面もなくストーンズについての解説書いちゃう、ということが許されていた時代なんですねー、70 年代の日本の洋楽界ってのは。まぁでも洋楽界の知的退廃状況は今も昔もあんまり変わってないのかもしれません。



えーと、話を戻しますと、David Bowie の最大の魅力は、彼が選び取った言葉 (歌詞)の持つインパクトにあった、ということです。このため、英語が読め ない人に対してBowieの楽曲の魅力を説明するのは、日本語を解さないガイジ ンに落語や漫才の面白さを説明するのと同じくらい難しいです。ところで、よ く言われることですが、一部の「言葉型」のロック・スターを受け入れる際に英 語圏の大衆が取る態度は、日本の大衆が自国の漫才師や漫談家を受け入れる場 合に取る態度にかなり近いんですね。例えば、言い古されているものとしては「ビートたけし = ジョニー・ロットン」説ってのがあります。最近だと、ギター侍(波田陽区)というタレントの芸が 2004 年の夏から日本で一世を風靡したが、その半年後にはあっと言う間に姿を消したという事件がありました(よね? 憶えてますかー)。ギター 侍が一時的にせよ非常に高く評価されたのは、彼の言葉の選び方、および 彼が行った「日本人なら誰もが理解できる、そして誰もがすぐに真似できる」 日本語による新たな定型表現の創出が秀逸だったからであり、その楽曲 (あれを楽曲と言うかどうかはともかく)の音楽性が高かったからではな いですよね。この「ギター侍の隆盛と衰退(The rise and fall of Guitar Zamurai)」とまったく同様に、David Bowie の言葉を中心としたパフォーマンスは、 1973 年に現れるやいなや英語圏の人々と英語を理解する一部の日本人 (そしてそのほとんどが女性!)により熱狂的に支持されたが、それから 5 年後には 予言通りすっかり廃れてしまったのだ、と考え た方がよっぽどスッキリします。よーく思い出してみましょう、その当時、日 本では「グラム・ロックは女子供向けの音楽であり、大の男が聴くもんじゃねーよ」 という風潮があったことを。

さて、英語が読めない人に対して Bowie の楽曲の魅力を説明するのは非常に 難しい、ということでした。例えば、本作のタイトル曲のサビの決めの台詞は "The European cannon is here"(直訳すると「ヨーロッパ式の大砲ここにあ り」)なのですが、この台詞が同曲のサビの最後で発せられた時の、その言葉 の持つぞくぞくするような強烈なインパクトを説明するのは(日本語に訳出す るのは)非常に困難です。だから Bowie のまともな翻訳が存在しないことは ある意味当然なのです。

などと偉そうなことを言っておきながら、初めてこの曲を聴いた時、私は中学 3 年生だったのですが、この曲に限らず Bowie の歌詞に関しては、重要と思われる曲ほど、そのほとん どが理解不能でした。アルバム『Ziggy Stardust』で言うなら、"Five years"、"Starman"、"Lady Startdust"、"Star" とかの「判りやすい」詩の意味は 当時でも理解できたのですが、タイトル曲や "Suffragette City" なんかは謎だらけ。 そして、その後も、アルバム 『Diamond Dogs』 や 『Station to station』 等のアルバムタイトル曲の歌詞の意味に関しては、長い間ずーっと「何言ってんだかサッパリ判らん」という「判じ物」 状態でした。弁解になりますが、これは私の英語能力が低いことだけが原因ではあ りません。なにしろ、当時のアナログレコードに添付の歌詞カードでは、 "Station to station" の出だしの部分の聞き取りは次のようになっていたの です。

The return of the clean white tube
Throwing darts in lovers' eyes
Here are we
One magical moment such is the stuff from where dreams are woven

え?何?のっけから全く意味不明です。 では、サビの部分はどうでしょう。

It's not the sad effect of the little game
I'm thinking that it must be long
It's too late to be grateful
It's too late to be late again
It's too late to be hateful
The european man is here

更にワケ分かりません。しかも同歌詞カードにはやたら "...."(聞き取り不 能箇所)が多く、"TVC 15" なんてまるで戦時中の検閲済み文書並に伏せ字 ("....") だらけでした。このような条件下では、よっぽど高度な英語の聞き取 りができない限り、歌詞の意味を理解できるはずがない、のでした。

すなわち、当時の私は、「間違いだらけの日本語の ディクテーションだけを頼りに、日本語ネィティブの演者が語る日本語による落 語や漫才を延々と聴き続けている日本語の聞き取りができないガイジン」であっ たのです。全く意味は分か らないんだけどなんかこの人達の歌ってることはとにかく凄い、という確信 (てゆうかもう信仰)だけを頼りに、私は Bowie をはじめ一連の「言葉型」の ロック・スター達のレコードを聴き、その歌詞を読み続けていたのでした。

その数年後、『Stage』というライブアルバムの日本版に添付されていた歌詞 カードを友人宅で見た時、出だしの部分は、どうやら "The return of the clean white tube" ではなく "The return of the thin white duke" と歌われているらしいと判明するのですが、「クリーンな白いチューブ」が実 は「痩せた白公爵」であったと判明したところで、この歌詞全体が意味不明である ことには何ら変わりはないのでした。

それから 20 年間というもの、私は折に触れてはこの歌詞の意味をずっと分析してきまし た(ウソ、すっかり忘れてました)。そして、数年前(西暦 2000 年頃?)に、本 リマスタ版を入手し、添付の歌詞カードではサビの部分の歌詞が以下のように表記され ているのを見て驚愕しました。

It's not the side-effects of the cocaine
I'm thinking that it must be love
It's too late - to be grateful
It's too late - to be late again
It's too late - to be hateful
The european cannon is here

ええっ、"it must be long" じゃなくて "it must be love" だったの?しか も "european man is here" じゃなくて "european cannon is here" だった の?これを読んだ時、私に「"European cannon"(=ヨーロッパ式の大砲)とは 『男根の象徴』に他ならない」という天啓が訪れました。すなわち、サビの部 分の "it's too late" から "European cannon is here" までは「自分自身が (円満なる性交のタイミングを逸した) 男根 -phallus- の象徴であること」を言 わんとしているのだ!と閃いたのです。この「大砲 cannon = 男根 phallus 」説に異を唱える方には、この解釈が私の突飛な妄想ではない根拠として、 Bowie 当人がすでにそのファースト・メジャー・デビュー・アルバムで「I'm a phallus in pigtails. ---- 我は捻って結んだ(in pigtails=弁髪状の)男 根なり」という歌詞を堂々と歌っていた(本記事冒頭の銘を参照)ことを挙げておきましょう。

ただし、「ヨーロッパ式の大砲 = 男根の象徴」と閃いたとしても、この曲全体 の意味は依然として不明であり、翻訳不能でした。その後、この歌詞を何度も 何度も読み込んだ結果、この曲のテーマが、「止まらない蒸気機関車」に喩え られるヨーロッパ的な資本主義エコノミーの原動力となった白人男性中心主義 ないし男根中心主義に対する痛烈なる批判および反省であると考えると全体的な 詩としての整合性が浮かび上がってくることにやっと気付きました。 「ヨーロッパ式の大砲」とは、何よりまず、先住民族を屈服させるための武器として アフリカ大陸や新大陸に白人により持ち込まれたものであります。 そして、 詩の前半 に現れる、円陣(魔法陣 - circle -)やら "Kether to Malkuth" やらのグノー シス主義のカバラに由来する秘教的な語の多用も、当時のヘビメタ音楽家達が 無邪気に採用していた黒魔術やグノーシス主義的ファッションが、実は単純な 白人男性中心主義に根ざすものであることを指摘しているのだと考えるとやっ と合点が行きました。ちなみに、Bowie は、アルバム『Lodger』(このアルバ ム全体のテーマが世界中の男に向けた強烈な男根中心主義批判だ)の『Boys keep swinging』〜『Repetition』という連続する 2 曲で、制服大好きのマッ チョ志向な男の子が成長してワイフ・ビーターになるという身も蓋もないストー リーを語っているのですが、これに関しては David Bowie の最大の歴史的な功績である(と私が考えている) 『"Suffragette" という語を初めて流行歌の歌詞に導入したこと』と絡めて、別稿で検討したいと思います。

2010年6月14日付記:

"Suffragette City"ってどういう意味?

どうやら、イギリス口語では "Suffragette"は「(過激な言動を伴う?)フェミニスト」を意味するらしいですよ。 だから、"Suffragette City"を敢えて日本語化するならば『フェミニストの都(みやこ)』とでもなるのかな。 ところで、明らかにボウイの "Suffragette City" の影響を受けて書かれたと思われる ポール・マッカートニーの'73年の大ヒット曲『Jet』の歌詞の一節は以下の通り。
----------------------------------------------------------------
Jet, was your father as bold as the Sergeant Major
Well how come he told you that you’re hardly old enough yet?
And Jet, I thought the major was a lady suffragette!
----------------------------------------------------------------
Jetという名の女性に結婚を申し込んだ俺だったが、あろうことか、当の彼女から「あのね、私のパパがね、”お前はまだ結婚には早すぎる”って言ってるの...」と告げられてしまう。俺は激昂のあまり、「なんだよなんだよ〜、お前の親父、鬼軍曹だって聞いてたけど、(自分の娘がこの俺様と結婚することに反対するなんて)

お前の親父、実はフェミニストのババァかよ!!

って思ったぜ」と彼女に口走ってしまう。ビートルズ時代に、マッカートニーがレノンと組んで(または単独で)多くのミソジニー的な歌詞("Norwegian wood"、"Maxwell's silver hummer"、"She's a woman"、"Get back"、"Run for your life"等々)を書いたことを知っていると、この歌詞の面白さが倍増する。 あと、関係ないけど、イギリス口語で言う "anarchist" とは、日本語で言う「アナーキスト」とはかなりニュアンスが違ってて、単なる「共産主義者」ないし「共産党支持者」の意味らしいですよ。

なお、今回の訳詞ですが、当然ながら、原文の強引な書き換えや原文には存在しない私個人の妄想 による大幅な「追加書き込み」を行っています。しかし、このくらい書き換えた り書き込んだりしてやらないことには Bowie (に限らずロック) の『詩』とい うものは日本語としての鑑賞に耐えないのだから仕方無いじゃないの、などと と思ったりして。

私が敬愛する偉大なる詩人伊藤比呂美氏は、Bowie の"Space Oddity" という 曲を訳すにあたって、いきなり "Major Tom" から "Tom" を取っぱらうという 暴力的な快挙を行っておられた。すなわち、「聞こえるか?少佐」と。これが また日本語の詩として素晴らしい効果を産んでいました。伊藤比呂美の "Space Oddity" の訳 (初出は、確かバベル・プレスの『翻訳の世界』という雑誌の 1991 年に発行 された号?)どっかに公開されてないかなぁ。

2006年10月8日 付記:

その後の調査により、"Station to station" の歌詞は、ボウイと同じく 60 年代から活動 しているイギリスのフォーク・ロック・シンガー(とでも言っておこう)である ロイ・ハーパー(Roy Harper)の "I hate the white man" という曲へのアンサー・ソング的な意味合いが濃厚であることが判明しました。 ボウイとロイ・ハーパーの接点は、 '68 年にジョイント・コンサートで共演している(なんと Tyrannosaurus Rex も共に!) こと、ボウイがプロデュースした "Ava Cherry & the Astronettes" のアルバムで、 ハーパーの "Highway blues"(1973) をカバーしていることが挙げられます。ただし、ハーパーは、イギリスの音楽界の先駆者として無茶苦茶に影響力強い人らしいので、ボウイがその影響を受けているのは当然かとも思えます。 対するに日本では、Roy Harper の知名度は悲しいまでに低く、Led Zeppelin のサード・アルバム最終曲で名前が引用されていること(『ロイ・ハーパーに脱帽』)と、ピンクフロイドの "Have a cigar" でゲスト・メイン・ボーカリストを担当していることが知られているくらいではないでしょうか。Roy Harper の日本語で書かれたファンサイトはまだ 存在しないようなので、私が自分で作っちゃおうかな?


訳注:

"throwing darts"には「ダーツを投げる」だけでなく、「麻薬を静脈注射する」という意味もあるらしいです。
参照:http://www.urbandictionary.com/define.php?term=throw%20darts

「from Kether to Malkuth」に関しては、以下のサイトが参考になった。
参考:『The Laughing Gnostic: David Bowie and the Occult』 by Peter-R. Koenig
http://www.cyberlink.ch/~koenig/bowie.htm













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