デイヴィッド・ボウイを翻訳する(1):「火星に生命体は存在するか」






それ1

はもうホントに超ちっちゃい出来事だったのね ネズミっ毛2の少女にとってはさ だけど彼女のママは「だめ!許しません!」って金切り声を上げるし 彼女のパパも「行かなきゃダメだ!」って言うもんだから3 少女は仕方なく家を出たのだけれど でも友達はどこにも見つけられなかったから 彼女は沈んだ夢を振り払うために 映画館の一番良い席に陣取って 銀幕にハマろうとしたわけ でも映画は悲しくなっちゃうくらい退屈そのもの だって彼女はもうそれを10回以上も生きたから 誰かが彼女に向かって

「集中しなさい!」

とでも注意しようもんなら 彼女はその馬鹿野郎の目に向かって 唾を吐き掛けたかもしれない

ダンスホールで喧嘩している水兵さん達 やだもう、何?あの原始人達は ださっ、マジでキモい見せ物よね 見てよ、あの善玉ってば殴る相手を間違えてるし やだもう、バッカじゃないの 彼、自分が超売れてる芝居に出てるって判ってんのかしら

火星には生命体が存在するかしら?4

それはアメリカの苦悶にゆがむ額の上であった5 そこでミッキー・マウスは雌牛へと成長した6 今や労働者達は名声(fame)を求めてストライキを起こしている というのもレノンがまた売りに出されたからだ 見るがいい イビサ島からノーフォーク・ブローズ7へと 移動する鼠の大群を8 『ブリタニアよ、統治せよ』は禁じられた愛国歌だ 我が母 我が犬 そして道化師達にとって それを歌うなどということは それはもう、とてつもなく不謹慎なことなのだ しかし「映画」とは「悲しくなる程の退屈」と同義だ というのも私は既に10回以上も「それ」を書いたからだ

私があなたに向かって「集中すること」を求めるとき またしても「それ」が書かれてしまうことになるだろう

ダンスホールで喧嘩している水兵さん達 やだもう、何あの原始人達は ださっ、マジでキモい見せ物よね 見てよ、あの善玉ってば殴る相手を間違えてるし やだもう、バッカじゃないの 彼、自分が超売れてる芝居に出てるって判ってんのかしら

火星には生命体が存在するかしら?

注1:この「それ(it)」とは何か?

例えば、糞面白くもない学校をサボることか? いやいや、もしかしてこの「それ」が、短期間に不特定多数との性交渉を持つこと、 そして、その結果としての

「父親が判らない」妊娠を指していたとしたら?

注2:マウシーヘア=「鼠(色)の髪」か?それはさておき、この歌詞に何度も 出てくる「鼠」は多産の象徴であり、マウシーヘアの少女の妊娠を暗示してい る。また、この多産性が映画の「多作性(量産性)」と対置される。 注3:パパが少女に対して言う「行かなきゃダメだ!」は、少女が堕胎のために 医者へ「行く」ことを連想させる。 注4:少女の胎内には新しい生命(の可能性)が宿っている。しかし、この新し い生命は、彼女の親からの命令により存在することを禁止されている(=堕胎 を命じられている)。

この胎児の生命は、存在が不確かであるという意味では、 火星上の生命体と全く同じだ。

注5:マウシーヘアの孤独な少女は成長して映画の脚本家となったのだ、と解釈 してみよう。そうすると、1番の歌詞は大人になった彼女による自分の少女時代 の回想であり、2 番の歌詞は「彼女が脚本家として現在書きつつあるNouvelle Vague的?な映画の脚本の断片」であるとの解釈が成り立つ。こう解釈した方が 断然面白い! 注6:ミッキー鼠だ! 注7:イギリスの湖沼地帯 注8:ここにも鼠が!しかも大群で!ところで、マイケル・ジャクソンが主題歌 を歌ったことでも有名な『Ben』(1972年制作)というアメリカ映画は、鼠が主 役の映画だ。

これは「終わりなき循環=エンドレス・サイクル」なのか?

子供の頃に見てあれほどバカにしていた映画 しかし、彼女は今、そのバカな映画の脚本を自分で書く立場となってしまった 自分が映画の脚本を書くという特権的な立場に立ったことで何かが変わっただろうか? いや何も変わっていない かつて客席にいた「受け手」が舞台裏(または舞台袖)にいる「送り手」となったとしても 受け手と送り手の断絶構造はまったく変化していない これは終わりのない悪循環だ だから、脚本家となった今でも、彼女にとって映画とは相変わらず死ぬほど退屈なのだ 彼女にとって映画(the film)とは、おもしろかったりつまらなかったりする特定のコンテンツではなく 旧態依然の「視線の一点集中」型メディアという枠組みを指している

退屈なのは個々の映画のコンテンツではない 映画と呼ばれている 受け手が送り手の作った映像を椅子に座って一定時間凝視するという この「視線の一点集中」型メディアの枠組み自体が 我々にとっては ずいぶん前から もう死ぬほど退屈なのだ

It's a God-awful small affair To the girl with the mousy hair But her mummy is yelling "No" And her daddy has told her to go But her friend is nowhere to be seen Now she walks through her sunken dream To the seat with the clearest view And she's hooked to the silver screen But the film is a saddening bore For she's lived it ten times or more She could spit in the eyes of fools As they ask her to focus on Sailors fighting in the dance hall Oh man! Look at those cavemen go It's the freakiest show Take a look at the Lawman Beating up the wrong guy Oh man! Wonder if he'll ever know He's in the best selling show Is there life on Mars? It's on Amerika's tortured brow That Mickey Mouse has grown up a cow An' now the workers have struck for fame 'Cos Lennon's on sale again See the mice in their million hordes From Ibiza to the Norfolk Broads Rule Britannia is out of bounds To my Mother, my dog, and clowns But the film is a saddening bore 'Cos I wrote it ten times or more It's about to be writ again As I ask you to focus on Sailors fighting in the dance hall Oh man! Look at those cavemen go It's the freakiest show Take a look at the Lawman Beating up the wrong guy Oh man! Wonder if he'll ever know He's in the best selling show Is there life on Mars? (Telephone rings: "I think that's the one". "Okay").

訳詞解説:「人生の一日」と「火星の生活」について

人は,自分が発見した驚くべき新説の正しさを証明するために,一体何をすべ きだろうか。当然それを他の誰かに伝え,それが正しいか否かについて他者の 判断を仰ぐべきだろう。しかし,今回自分が発見したこととは,これまで非常 に多くの人の目に曝されながらも,誰からも指摘されることなく見過ごされて 来たことである。このため,いざその発見を他人に伝えようとする時になって, この新説の発見者は急に不安になる。はたして本当に自分は正しいのか,それ とも単なる馬鹿であるのか。いや,自分の説が正しいことについては間違い無 く自信があるのだが,それを他人に理解してもらえるかどうかに全く自信が無 いのである。だが,沈黙を守っていたのでは自説の正しさをいつまでも証明で きない。そこで私は不安にオノノキながらも以下に私の大発見を公表するもの である。

私がここで論証しようとしている世紀の大発見,それは,

David Bowieの『Life on Mars?』という曲は,ビートルズの『A day in the life』という曲に対するアンサー・ソングである

というものである。…あっ,いかん,これを読んでいる人がすーっと引いて行 くのが見える…。お願い,引かないで下さい,この話,ほんっとオモシロイん ですから,最後まで読んで下さい,って最初から弱気になったらイカンな。

(気を取り直して)えー,私がこの大発見をしたのは,忘れもしない2002年 10月9日の何日か前だか後だかの深夜のことでありまし た。なんかオモロイ本かCDでもないかナと,私はいつものようにamazon.co.jp のWebサイトを検索・閲覧していたのでした。皆さんご存知のように,amazon とかのサイトでは一旦ユーザ登録をすると,そのユーザの行った購入や検索結 果に基づいて,その人向けに選別した情報をユーザのトップページに表示して くれるんですね。それでその時,私のパソコン(ちなみに,OS は RedHat 6.0 ベースの Linuxで,FVWMという古くっさーいウィンドウマネジャをわざわざソー スからコンパイルして,その上でMozillaを動かしており…あ,いかん,つい マニアックな話になってしまった。判らないヒトは判んなくていいです)の画 面には,『デヴィッド・ボウイ・ベスト』というCDが新しく出るので買え,と いう趣旨の情報が表示されたのですね。

それ見て私は思いましたね。バカヤロ,オジサン(私)はネ,今年で41歳なん だよ,Bowieのアルバムは中学生の頃にRCAから出たエル・ピーで全部買ってる んだよ(全部売っちゃったけどネ),RYKODISC社から出たボーナス・トラック付 きのCDも全部買ったんだよ(全部人にあげちゃったけどネ),デジタルリマスタ 版のCDも全部持ってるんだよ(ただし70年代のヤツだけだで,しかも全然聴い ていないけどネ),いまさら訳の判らん新曲(ってのは80年以降のモノのこと) が入っているベスト版なんか絶対買わねぇんだよ,かなんか言いつつも,どれ どれ,どんげな曲が入っちょるとかね,変な曲入れちょったら 許さんけんね,と曲目リストを見ると,そこに『火星の生活』というタイトル が入っちょったワケです。

あ,『火星の生活』ね,これ良い曲だよね,原題は『Life on Mars?』(正確に はクエスチョンマーク付き)だよね。日本版ではいまだにこのトンでもねぇ誤 訳の邦題を付けてるんだよね,これ,『火星に生命体はいるか?』って意味だ ろーが,ったく日本のレコード会社は馬鹿ばっかでケシカランよ,んで,この 曲,フランク・シナトラで超有名な『マイ・ウェイ』と同じコード進行なんだ よね,…とまぁここまでは,これまでいろんな人が指摘してきたことであり, そんなようなことを私もぼんやり思い浮かべていたんですね。

それで,まぁ,久しぶりにこの曲聴いてみっか,もぅ,と同曲が収録されてい るアルバム『Hunky Dory』(1999年Virgin/EMI社発売のデジタルリマスタのア メリカ版)のCDをひっぱり出して聴いたんですね。同リマスタ版には,一応オ フィシャルでかなり正確な英語の歌詞の聞き取りが添付されているので,それ を読みつつ同曲を聴いてたワケです。そうしておりましたら,その時突然! あぁ,なんということでしょうか,私の頭には以下の命題が天啓のように閃い たのでした。

『Life on Mars?』の歌詞は,ビートルズの『A day in the life』の歌詞にぴっ たり符合している。
そして,『Life on Mars?』の歌詞を通して『A day in the life』の歌詞を読 み直すことにより,長年「謎」とされて来た後者の歌詞の一行"I'd love to turn you on"の真の意味が明らかになる!

これに気付いた時,私は興奮に打ち震えましたね。この興奮はもしかして,か の天才柳瀬尚紀氏がジョイスの『ユリシーズ』の第 12 章(「キュクロプス」挿話)が「犬」の視点 で書かれていることに気付いた時に得られたであろう知的興奮と全く同質のものではないか, とまで思いましたね(ま,Bowie とジョイスじゃ読者の知性や品性が偉 いこと違うけどね)。

それで当初私はこの説を,現在最も身近に居る他人である嫁にまず発表しよう と思った。だが,嫁はBowieに関しては「でびっと(「と」に注意)・ぼーい? あぁ,レッツ・ダンスのヒトね」というくらいの知識しか無く,ビートルズに 関しては『Let it be』を歌っているのは実はジョン・レノンだよと嘘を教え てもそれを信じてしまうような人間なのである。このような痴れ者に私の高邁 な新発見が理解できようはずもないので,嫁への発表は断念した。

次に,私はこの大発見を娘に説いて聞かせようとした。私の娘ならば,必ずや 父のこの新説を理解してくれるのデワ,という期待があった。だが,娘は,始 まったばかりの私の説明をいきなり「パパ,つみきでアソボ」という一言のも とに中断させてしまった(娘は1歳6ヵ月)。

いかんいかん,誰かワシの大発見を聞いてくれる奴はおらんのか,私は焦り始 めた。先にも書いたが私は今年(2002 年現在)で41歳であり,友人の数も 極めて少ない。その数少ない同年代の友人達は既に課長とか係長クラスの年代 であるから(ヒラや無職の奴もいるけどネ),彼らは仕事で忙しく私の高尚な新 説など聞いてくれそうもない。つうかこの歳になってまでロック音楽の話が平 然とできるような阿呆は世の中に滅多にいないのである。

弱った私は,自分のWebサイトで新説を公開することも考えた。私は仕事(シス テムエンジニア)上の必要性から,この2年間自宅でいわゆるインターネット サーバを構築・運用しているのだ。だが,私のサーバ上のWebサイトには,た まにどっかの痴れ者がポートスキャン(ハッキング/クラッキングの一手口) のためにアクセスしに来るだけであり,誰もまともに私のサイトのページなど は見やしないのだ。うーん,困った。

そこで私は,窮余の一策として,amazon.co.jpの「カスタマー・レビュー」 (各商品に関して誰もがその評価を投稿できる機能)を使って,以下の文章を投 稿してみた(本論の要約にもなっているため,全文を以下に引用する)。

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商品デヴィッド・ボウイ『ハンキー・ドリー』に対するカスタマー・レビュー
おすすめ度 ★★★★★星5つ
タイトル:『火星の生活』という小学生レベルの誤訳はいつ訂正されるのだろうか?
投稿者 kkoichi   神奈川県 茅ヶ崎市

『Life on Mars』を聞くためだけにでも本作を買うべきだ。散々指摘されてい
ることだが,日本版では『Life on Mars』がいまだに『火星の生活』というマ
ヌケな邦題に誤訳されており,私はこれを見る度に,自分が文盲だらけの南洋
の土人の島国に住まわされているようで悲しくなってしまう。

『Life on Mars』で語られている大まかなストーリーは次の通りだ。家庭に居
場所がない少女が仕方無く映画館に行くが,彼女にとって「映画というもの」
は全く退屈でどうにも視線をスクリーンに集中できない(彼女は他の観客から
「focus on = 集中しなさい!」と注意されるが,それを言いやがった奴の
「目」に唾でも吐いてやろうか,と思う)。そこで,映画にぼんやりした焦点
を合わせながらも,彼女の思考は切れ切れに移ろい,いつしか彼女は,"Is
there life on Mars?"  (言うまでもなく「火星には生命体が存在するか?」
という意味で,これ以外には訳しようがないっ)という大問題(彼女にとっての
目下最大の関心事)についてぼんやりと思いを巡らす…。

ところで誰も指摘していない(と思う)が,『Life on Mars』の歌詞は,明らか
に Beatles(つうかJ.レノン)の『A Day in the life』に対するアンサー・ソ
ングなのである。『Life on Mars』の "Is there life on Mars?" は,『A
Day in the life』の終わりにいきなり挿入される "I'd love to turn you
on" という謎の一行に対応する。レノンの詩では,非常に曖昧ではあるものの,
集中力の欠如を特徴とする「ワレワレ世代」の性格的傾向,この傾向を「三無
主義 = 無気力・無関心・無責任(だったかナ)」などとして否定的に語ること
に対するやんわりとした違和感が唱えられていたのだが,Bowie の詩はこれを
一歩進めて,この違和感を「視線の一点集中システム(例えば映画というメディ
ア)に対する根本的な懐疑」へと発展させた,と見るべきだろう。しかもこの
ような歌詞を『My Way』(という「この道一筋!」を賛美する一点集中信奉世
代の人生応援歌)と全く同じコード進行に乗せて歌うとは,Bowie という人は
あまりにも意地が悪い。
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私は上記の文章がカスタマー・レビュー欄に掲載されるのを待った。同サイト には「投稿から掲載までには1週間程かかります」と書かれてあったが,せっ かちな私は毎日毎日『ハンキー・ドリー』のページを表示しては,レビューが 更新されているかどうかを確認した。そして投稿から5日後,ついにそれは公 開された(*注)。ただし,冒頭の文中の「土人」という語が削られた形で。

*注:これは嘘ではなく事実である。本当に公開されているので,ここを見て頂きたい。

どうも「土人」というワードは,amazon.co.jpのサイト上では検閲の対象となっ ているらしいのだ。うーん,自分が書いた文がそのまま載らないというのは, どうにも歯痒く,くやしい。それに,同カスタマー・レビュー欄には「このレ ビューは参考になりましたか?」という形で,投稿者以外のヒトからの投票を 募る機能があるのだが,私のレビューに対してはいまだに1件の投票すら無い (すなわち誰も読んでおらず,誰も評価しようとも思わないのだ,おみゃー)。 しかも悪いことには,改めて読んでみると,amazon サイトの文字数制限(最大 800字まで)もあって,後半部分は説明が舌足らずに終わっていることに気付い た。うーん,もどかしい。これでは私の大発見が正しいかどうかを世に問うと いう当初の目的が果たせないではないか。

このため,私は結局,自分の Web サイトでそれを公表することにした。これ が本稿執筆に至るまでの経緯である。さて,いよいよ次の段落から本論に入る。 ここからは文体が変わって一挙に難しくなるので,読者はココロして読まれよ。

『A Day in the life』の歌詞の分析

まず『A Day in the life』の歌詞の分析から始めよう。(注: 同曲の原文および全訳はこちらを参照のこと)。 言うまでもなく,こ の曲はアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』の最終曲であり, サウンド的には特にエンディングの,オーケストラの全楽器によるクレッシェ ンドの後に延々と響き続けるピアノ・コードの余韻で超有名な曲だ。だが,本 論ではサウンドに関しては一切論じないし,各部の歌唱者(ないし作詞者)がレ ノンであるかマッカートニーであるかすらも敢えて問わないことにする。

『A Day in the life』の歌詞は次の構造を持つ。ここでは,詩の「節(verse)」 という概念を導入している。などと大袈裟に書いてはいるが,なーに,節とは,簡単に言えば歌詞の1番,2番とか言う 時の「番」に相当するものだ。

節A1→節A2→節A3→節B→節A4

節A1およびA2では,新聞で悲惨な死亡事故の記事を読んでもなぜか思わず笑っ てしまう「シラケた私」,が語られ,続く節A3では,映画を見ても(周りの観 客とは違って)そのシーンには全く反応せず,「原作本を読んだんだから一応 見なければ」と義務感が先立ってしまう「無感動な私」,が語られる。節Bで は,毎日あたふたと起床しては大急ぎでバスに乗り,(おそらくはヤリ甲斐の ない)仕事に向かう途中で寝てしまう「無気力な私」,が語られる。最後の節 A4では,節A1およびA2ではまだしも「今日読んだ新聞記事」は現実的な意味を 帯びていたのだが,ここに至っては読んだ新聞記事が片っ端からノンセンス・ ジョークへと変貌しまうという「世界のあらゆる事象に関して無関心を装う 私」,が語られる。これらの節で使われている英語はいずれもまったく平易で あり,理解に苦しむ部分は何一つ無い。だが,詩節A3および詩節A4 の末尾に おいて,それまでの文脈を全く無視して,まさに「いきなり」という感じで, "I'd love to turn you on" という謎の一行が挿入されるのだ。

この一行が謎めいているのは,それまでの一人称による語りの文脈には存在しなかった "you" がいきなり登場し,その "you" に対して唐突に語りかけているためでもある。 詩におけるこのような「一人称の語り手による,不在の人間(または死者)や無生物に対する呼びかけ」の唐突な挿入は,修辞学的には「頓呼(とんこ)法」(apostorophe)と呼ばれる(「呼びかけ法」とも言う)。

ここで大きく脱線。"apostorophe" と言えば,飼い主の足の臭いを嗅 いだ犬が,自分に呼びかけた当の飼い主に対して,いきなり「問題の核心は頓呼法にある -The crux of the biscuit is the apostrophe -」と語り始めた, というフランク・ザッパの曲の歌詞を連想させもする。ただし,実際にはこの"Stink-foot" という曲の歌詞は,やや長くて,呼びかけられた犬は飼い主に対して次のように語る。『ある時,誰かが俺に「あなたにとっての一貫したテーマは何ですか -What is your Conceptual Continuity?」と聞きやがったんで,俺はその野郎にこう言ってやった,「簡単なこった,ビスケットの中心点 = 問題の核心(The crux of the biscuit) は "apostrophe" だ」』。ザッパ本人へのインタビューによれば,ここでの "apostrophe" とは所有格を表す記号 (') を意図しているとのこと。すなわち,正統的とされる解釈では,『「誰の」概念的連続性であるかを問うことが一番の問題だ』という意味になる。その一方で,これは 1970 年代にアメリカで流行した骨形ビスケット式ドッグフードの中央に刻印されているブランド名 "GAIN'S" の "'" を意味しているとの説もある。だが,ここでの "apostrophe" は「頓呼法」として解釈した方が哲学的には断然面白い(バーバラ・ジョンソンの 「頓呼法」(apostorophe)と「活喩法」(personification/animation)と「堕胎」(abortion)に関するスルドイ分析を参照)。頓呼法とは,「言語を介した応答を返してこないことが当の一人称の語り手にとって明らかである対象に向けての語りかけ -address-」なのであるが,ここで当の対象がその呼びかけに対して言語を通じて応答したらどうなるか?という思考実験。腹話術の人形(無生物)が語り始めるのとやや事情が異なるのは,「ペットの犬」という「動物」が対象であることか。また,これはインタビューにおけるインタビュアーとインタビュイーの関係に対する皮肉にもなっている。話が膨らみすぎたので,この件に関しては別稿で論ずる,予定。

しかし形式はともかく,この行の意味は何なのか。『A Day in the life』と いう詩の中で,この一行はどのような意味を持つのか。この疑問に対する明確 な答えを出した人を,少なくともこれまで私は知らない。


『Life on Mars?』の歌詞の分析

続いて『Life on Mars?』の歌詞の分析に移る。(注: 同曲の原文および全訳はこちらを参照のこと)。 この詩は次のような単純な構 造を持つ。

節A1→節B→節A2→節B

(節Bはいわゆる「サビ」であり,まったく同じ内容が2回歌われる)

節A1では,先の要約の通り,本詩全体のストーリー設定が語られる。家庭に居 場所が無い少女(彼女には友人も居ない)が仕方無く映画館に行き一番良い席に 着くが,彼女にとって「映画」とは「悲しくなっちゃう程の退屈」の別名である。なぜな ら彼女は10回以上も「それを生きた(lived it)」からだ(*注)。おそらく退 屈のあまり彼女は大きなあくびをするだろうし,椅子をギシギシ鳴らすかもし れない。そして,それが原因で,観客の誰かが自分に向かって「集中しなさい! (focus on)」とでも注意しようもんなら,彼女はその馬鹿野郎どもの「目」に向かっ て唾でも吐き掛けてやろう,とすら思うのだ。

*注:言葉に無自覚な翻訳者は,ついこれを「彼女は10回以上も それを見たからだ」と訳したくなるだろうが,それは間違いだ。ここでは, まさに「映画を生きる」とはどういうことなのかが問われているのだ。この慣用句は,映画への没入,映画の主人公への自己同一化,「手に汗握る」ハラハラドキドキ感を伴う精神高揚状態への移行,などなどを意味することもあろうが,「10回以上も映画を生きた」と言うからには,「大切なのは,『良く生きる』ことではなく『多くを生きる』ことだ」(ニー チェ)を連想すべきではなかろうか。

続く節Bで語られている情景は,この少女がぼんやりと退屈な映画を見ながら, その映像の各シーンに対してシニカルな一人ツッコミ(独白)を入れている,と 解釈するのが妥当だ。「ダンスホールで喧嘩している水兵さん達,何よ,あの 原始人達は,ださっ,ほんと最高の見せ物小屋よね,あ,あの警官,殴る相手 を間違えてるし,バッカじゃないの,彼,自分が芝居に出てるってこと判って んのかしら」。そしてこの後,ここでも『A Day in the life』と相似した形 で,それまでの文脈を無視するかのように唐突に,"Is there life on Mars?" という一行が挿入される。だが,『Life on Mars?』の場合,この台詞は少女 の独白であることが文脈から明らかだ。すなわち,「火星には生命体が存在す るのかしら?」という問いは,何事かの一点に対する「集中力」という ものを欠いている孤独な少女が,しかし「かろうじて何とか興味を持てる 唯一の関心事」なのだ。

節A2の詩はやや複雑だ。ここでは多くの固有名詞(地名/人名)を含む以下の雑多な文が脈絡無く断片的に語られる(た だし,面倒なので,これらの固有名詞に関する分析は,誰もが 気が付くであろう「レノン(Lennon)」を含め敢えてバッサリ省略する)。

上記のような断片的な文が語られた後,本ストーリーの語り手である一人称の「私(I)」が登場し,次の ように語る。
But the film is a saddening bore
'cause I wrote it ten times or more
it's about to be writ again
as I ask you to focus on (*)
しかし「映画」とは「悲しくなる程の退屈」と同義だ
というのも私は既に10回以上も「それ」を書いたからだ
私があなたに向かって「集中すること」を求める限り
またしても「それ」が書かれてしまうことになるだろう

(*)"as I ask her to focus on" という聞き取りも存在するが,ここでは "ask you" を採用した。

してみると,この節A2の前半部分は,少女の妄想ではなく,この詩の語り 手としての「私」が想起したイメージだと解釈するのが妥当だろう。第三人称 で語り始められた作品の途中で,当の作品の作者と思しき「私」が登場する技 法など文学作品では特に珍しいことではないし, どちらかと言えばそれはかなり下品なレトリックだ。重要なのは, この詩が読み手(聴き手)に対して, 切れ切れの思考の断片を何らかの高みに立って取りまとめようとすることや, この詩自体を「まるで映画のような物語」などとして安易に解釈することを断固として禁 じているところだろう。

そして再度,節Bが来る。詩の終わりは,もちろん"Is there life on Mars?" という唐突な一行だ。

結論

上記の分析から,『Life on Mars』の "Is there life on Mars?" は,『A Day in the life』の "I'd love to turn you on" に構造的に対応しているこ とが明らかとなった(ホントかよ?)。さて,結論を急ごう。要するに,『A Day in the life』 の"I'd love to turn you on"とは,世界のあらゆる事象に対して積極的な関 心を一切持てない「私」(詩の上での語り手) が,それでもどうにか「やっと こさ」関心を持てる唯一の曖昧な欲求の吐露なのである。実は,Bowieは自ら の曲の中で,この「turn on」をくどい程に引用している。例えば, 『Rock'n'roll suicide』中の"Let's turn on with me",『Bewlay Brothers』 中の"We were so turned on, by your lack of conclusions"(「あぁ,俺らは 十分turn onされたよ,そのお前の結論の無さによってな」) などが正にそう だ。まずい,「くどい程」という割には2つしか例が出て来ない。まずいけど, まぁいいか。あ,『John, I'm only dancing』の "She turns me on, dont get me wrong" もそうだね。あと関係ないけど,Bryan Ferryには,そのものずばり『To turn you on』とい う曲がありましたね。

しかしこの,「あなたをturn onしたい」という,どうにも曖昧で,焦点を欠 いた,翻訳しようがない(つうか翻訳しちゃイカンよね) 独白は一種の「寝言」 ではないのか。シニカルで,シラケた,無感動で,無気力な「私」,だがこの ような「私」の傾向はそれほど特異でも病的でもない。このような「私」がも し「大人」であったならば,まさにそれを単なる寝言として片付ける(無 視する)のが適切だろう。実際,この一行の存在は,これまで多くの人から単 純に無視されてきた訳だし。しかし,この「私」がもし「子供」であったなら どうか?『Life on Mars?』の少女がつぶやく「火星には生命体が存在するの かしら?」という疑問を一笑に付し,彼女に対して「もっと別な何事かに集中 しなさい」とあなたは注意するだろうか。

私には,『A Day in the life』の"turn you on"をくどくくどく引用すること で,Bowieはある一人の子供(例えば Lennon という名前の永遠の子供)を何とかし て救おうとしたのではないかと思えてならない。

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